「富豪の自衛法」
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時事新報に掲載された「富豪の自衛法」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
富豪の自衛法
地方の大地主をして小農の羨望を防ぎ自家の安寧を保たしめんとするには平素事なきの際に餘穀を蓄藏し一朝凶年に出會したる時に其倉庫を開きて之を散ずるこそ至極の妙策なる可けれとは我輩の屡屡言を費せし所にして過日も本年は天候の模樣其順を失ひ冷熱規に適せず或は凶年ならんも知る可からざれば其邊の用意肝要なりとの次第を述べたり是れは唯大地主の爲めを計りて策を建てしものなれども他の富豪家も亦地主と同樣に時時淨財を散じて公共事業の發達を輔くるを以て自家防衛の宜しきを得たるものなる可しと云ふ其次第は今日西洋諸國の模樣を窺ふに諸種の事業漸く規模を大にして其全權都て富豪の掌中に歸し貧民は絶て之に與るを得ざる勢となりしかば貧富の間次第に懸隔して人情の走る所、自然に富豪を怨むの心を生ずるに至りし其處へ學者識者と稱する人人の中にも社會のこの情態を悦ばざる者多くして其説に斯く貧富の懸隔するは天然の約束に非ず人間社會の害惡なりとて攻撃の論鋒を富豪の一方に差向けて非難の聲頗る高し是れぞ即ち社會黨問題の起りし因縁にして西洋諸國の政府は皆その處置に苦しみ佛國の如き民法に長子相續を許さずして成る可く財産を平均せんとの主義を採る國に於てすら既に社會黨問題の氣焔熾なる程なれば我が日本國と雖も一度西洋の制度文物を移植し世界の大勢に從はんと决したる上は早晩彼の諸國と同樣の運命に遭遇するは自然の數にして現に今日民業の小なるものは次第に一處に集合して次第に大事業の起らんとするを見ても將來の形勢を知るに足る可し左れば我が富豪大家に於ても篤と彼の事例に鑿み將來永く小民の心を和して他の羨望に遠ざかるの策を講ずるは今日の大早計に非ざる可し或は貧民の數は多くして富豪は少なし到底手の屆く可き限りに非ざる尚ほ其上に猥りに財を惠めば終に其恩に慣れて却て不足を訴ふるの憂ありと云ふものもある可し我輩これを知らざるに非ざれども惠與の法は一にして足らず苟も其方法さへ適當なるものならんには右の弊を免るると共に所費少なくして効能大なるものある可し例へば自から工塲を建設し無職の貧民を雇ふて働かしめ報酬を與ふることとせば恩に慣るるの憂を去るを得るならん或は自分にて企つるを煩はしと思はば基礎確實なる既設の慈善事業に財を寄附するも可なり兎に角に相應なる方法を求めて世間の貧苦を緩和するは直接に他を救ふと共に間接に自から衛るの道なりと知る可し尚ほ此外に慈善義捐の法を求れば學校病院の維持、道路橋梁の普請、神社佛閣の建立に助力する等枚擧に遑あらず從來我上流には富豪少なからざる其中にも華族の如きは其身に是れと定まりたる職分もなくして富貴を專らにし然かも士民の標凖など稱せらるる程の身■(てへん+「丙」)なれば他に率先して標凖の事實を明にし以て萬分の一を盡すこそ國家に對するの義務なる可し此頃米國の新聞を見るに本年上半季の間に彼の有名なるヴアンダビルト一家其他の富豪より紐育府の病院大學等に寄贈せし金額は都て三百四十五萬弗の多きに上れりと云ふ慈善の美擧誠に美なる其中にも自から自衛の意味を含むは推して知る可し左れば我貴族富豪の人人も此種の例に倣ひ時に或は私財を散じて公共の爲めにするは啻に他を利するのみならず自から亦自利の法なる可し我輩は特に其猛省を促す者なり