「・世界周航」
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時事新報に掲載された「・世界周航」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
・世界周航
海軍の擴張に就ては軍艦の製造は申す迄もなく士官の養成、兵器の充實、船渠兵廠の建築等新に施設を要するもの一にして足らず何れも擴張の新事業にして目下の急なれども我輩は其擴張の機會に際し兼々主張したる世界周航の實行を希望するものなり從來我軍艦の遠航は常備艦隊が時々支那朝鮮の諸港及び露領浦鹽斯德の邊に至ると海軍兵學校の卒業生に實地の運用術を練習せしむるが爲め凡そ一年一回練習艦を南洋諸島もしくは濠洲に航せしむるとに過ぎず尤も明治十三年に淸軍艦が歐洲を周航し又同二十三年に比叡金剛の二艦が我國の海岸にて沈沒したる土耳古軍艦の存命者を載せて彼の國に至りしことあれども是れは例外の例にして海軍の創設三十何年來日本の軍艦は一の艦隊として世界各國人の目に觸れたることなし海國の不面目に非ずして何ぞや蓋し海軍の部内にも世界周航の説は頻り
に行はれて實際に計畫を立てたるものさへあれども何分にも經費の足らざるが爲めに折角の計畫も實行に差支へて其儘に成行きたる次第なりと云ふ遺憾の至りなれども既往の事は兔も角もとして今回の戰爭に黄海の激戰、威海衞の攻撃の如きは我海軍の技倆を實際に發表して世界の耳目を驚かし日本は單に陸戰に強きのみならず海戰の技倆も亦驚く可きものありとて世界到る處に大評判の折柄なれば此機會を外さず少なくも二三隻の軍艦を以て一の艦隊を組織し世界の周航を企て以て宿昔の遺憾を消せんこと我輩の敢て希望する所なり周航の利益を云へば第一に海軍軍人の經驗知識を增すは勿論、閒接には商賣貿易を奬勵し國光を世界に發揚するの效能ある可し今の世界には何れの海洋を航するも海賊等に遇うて我武を示すの機會は決して望む可らざるも未知の海上風波の危險を冒して乘組員の腕を練るの利益は申すまでもなく外國の港に入りて他の軍艦と相接するときは素より平和の交際にして互に禮讓を守る其中にも隱然相對峙して一擧一動苟もせざるは恰も封建の藩士が他藩士に接するものと趣を同うし相互に謹愼すると共に相互に威嚴を重んじ自から武人の氣品を高尚にするの機會少なからざる可し又英國などの例を見るに所屬の植民地は勿論、苟も自國の商賣の行はるゝ地方には時々軍艦を派遣するの常なり敢て力を以て商賣を保護するものに非ざれども背後に軍艦の賴あるときは商賣人は安心して事を行ひますます進取の勇氣を生ずるの效能あれば今や日本の商賣も次第に擴張して現に印度には汽船の航路を開き又米國濠洲及び南洋諸島の邊には我商人の住居して業を營むもの少なからず今後ますます進歩の一方にして既に海外の航路擴張の計畫さへもある程の次第なれば軍艦の周航は商賣奬勵の手段としても最も有效のものなる可し又今回の戰勝に海外諸國の人々は何れも日本海軍の威容を想像して措かざる其處に眼前に戰勝國の軍艦を目撃し又親しく軍人に接するときは其感情も亦一入にしてますます國光を發揚するの結果は疑ふ可らず何れの點より見るも其效能の著しきは一般に認むる所なり世界を周航するには費用も少なからざれども實際の效能を見れば其費用は物の數にも非ず此機會に實行を企て是れを第一着として今後は二年に一回もしくは三年に一回づゝ行ふことゝ爲し終には彼の英國の周行艦隊の如く我軍艦の若干隻は常に海外に在て日本海軍を代表せしむるの趣向に至らしめんこと我輩の敢て希望する所なり或は我軍艦の外航に就ては威海衞に於て收容したる彼の捕獲艦をも伴ひ日本の戰勝を海外に謀る可しとの説もあれども戰勝の事實は既に已に滿世界の認むる所なれば日淸兩國の交際全く舊に復したる今日に當り斯る兒戲を演じて徒に他の感情を損するが如きは實際無益の殺生と云はざるを得ず我輩の序ながら一言して戒しむる所なり