「・支那の外交及び貿易」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「・支那の外交及び貿易」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

・支那の外交及び貿易

若しも支那が日本と相提携して共に東洋の事を談ずるの資格を有せんには誠に雙方の仕合なれども今日までの模樣にては政治上の友として甚だ賴み少なきが如し統一の業未だ全からざるの姿ありて中央政府の威信重からず其命令は四方に行はれずして恰も我幕末の形勢を示し國の頭腦も實際何れの邊に存するか明かならざる場合さへなきに非ず例へば先年佛蘭西との戰爭に於て南方には烈しき戰行はれて南洋艦隊は散々に打破られたれども北洋艦隊は對岸の火災視して急に赴かず空しく北洋に橫はりて安を偸み又今回の日淸戰爭には北方に於て屡々激戰あり連戰連敗して國の存亡旦夕に迫りたれども南洋艦隊は殆んど關り知らざるものゝ如く只傍觀したるのみ彼の廣丙艦長程璧光が釋されて威海衞立去るとき我艦隊司令官に向ひ今度の戰は北洋の戰にして南洋の知る所に非ず其一二艦の戰場に在りしは戰はんが爲めに來りしに非ず豫て檢閥の爲め北方に呼び寄せられし際たまたま戰爭起りて餘儀なく其内に加はりしものなれば日本に對して恩怨なし願くは南洋の殘艦一隻を我に賜はる可しと云ひしが如きは正に支那の國情を説明したるものと云ふ可し然かのみならず約に背き信を破るは支那外交の常にして阿片戰爭のときには二たび英國を欺きたり英軍の舟山嶋を占領し白河迫るや淸廷は詐りて和を媾ぜんと欲し伊里布をして英の領事エリオツトに天津に會して事を議せしむ伊里布言を巧みにしエリオツトをして廣東に赴き廷議の決するを待たしむ至れば則ち淸國全權の一人〓善なる者迎へて厚遇し香港を輿ふ可しなど約束して兔角時日を遷延し其閒に兵備を修めて略ぼ整ふを見るや伊里布、〓善は全權なきに叨りに和を議したるものなりとして兩人を貶し以て再び戰を開きたり英軍大に立腹して廣東を攻め淸兵を破りたれば再び和を議し淸は六官〓〓の償金を拂ひ英は占領地を返還するの約を結び各々兵を引き揚げしに淸軍は不意に廣東砲臺の英の守備兵を襲撃し賞を懸けて英人の首級を募れり更に英佛同盟軍の支那征伐史をみれば一層明かに支那外交の眞相を窺ふを得べし同盟軍の進んで天津に入るや淸廷は桂良、花沙納の兩人を全權使臣として和を天津に議せしめ議整ひたれば英佛使臣は批准交換の爲め其翌年北京に赴かんとて白河に至りしに淸國官吏の約を守りて此地に來り逢ふる者なきのみならず人民は杭を河口に立てゝ其進行を妨害し遂に護衞艦と砲臺との閒に砲戰を見るに至りしかば英佛は其不信を責めて天津條約の〓行を求めしに淸廷は之を拒否したり同盟軍の進んで天津を占領するや桂良及び花沙納の兩使は再び兩國の全權と〓〓〓〓〓〓はんとしたれども淸使の全權を有せざること及び此〓〓は淸國の謀略にして時日を遷延し〓〓〓を〓〓するは〓せん爲めなること判然したるを以て事復た破れたれば今度は懿親王出でゝ和を請ひたれども淸軍は盛に軍容を張り懿親王の許に赴かんとせし同盟軍の使者を捕へ且つ同盟軍を攻撃したれば議又々破れて遂に城下の盟を爲すに至れり斯の如く支那の外交は反覆常なきのみならず國内の統一さへ出來ざる程の次第なれば如何なる約束を結ぶも力を以て強行を促すに非ざれば無效に歸することなる可く東洋の政事を斷ずるにも我は相手を遠き西洋に求めざる可らず甚だ遺憾なれども然れども商賣の相手としては支那は實に無量の價ある國として貴ばざる可らず政府の歳入は僅かに七千四百五十萬兩にして甚だ富有ならざるが如しと雖も其富有ならざるは只政府のみ四百廿一萬八千方哩の廣大なる領土は至る所豐饒にして各種の農産物に富み茶、生絲、米、綿、豆類は申すに及ばず銅鐵の鑛山も多く特に石炭の如きは十八省中、所として之あらざるはなく恐くは世界一の石炭國なる可しと云ふ四億二百萬の人民皆勤儉にして富有なるは十目の見る所にして幾千萬兩又は幾億兩の富豪大家少なからざるを見ても之を證す可し特に世界の他の部分は既に開拓して遺利も多からざる可しと雖も支那の開拓は今や創業の際にして商賣工業は是より益々發達して前途の望みは洋々として春の海の如くなるが中にも日本は彼と相距る甚だ近くして交通往來に於て他の及ばざる便利を有するのみならず日本古代の文明は支那より輸入したるもの多きが故に風俗、慣習、嗜好に於て相類するもの今尚ほ少なからず若し此特別の便利を利用し支那人の不器用にして文明の智識なきに乘じ我優美にして輕便なる製品の販路を開かば我國民が全力を擧て支那貿易品を製造するも尚ほ其不足を感ずるの時ある可し然るに我國民の支那貿易を見ること重からず今日までの進歩は滿足なりと云ふを得ず最近の調査に據れば英人の支那各港に在留する者は三千七百四十六人にして其商店は三百四十五、米人は一千二百九人にして其商店は二十七、獨逸人は六百六十七人にして其商店は八十二、佛朗西人は六百八十一人にして其商店は廿四、葡萄牙人は六百五十九人にして其商店は七、日本人は八百八十三人にして其商店は三十一なり又其貿易を見るに千八百九十三年の輸出入額は凡そ二億六千八百萬兩にして内英國は凡そ三千九百八十二萬、香港は一億二千九百十八萬、印度は千九百四十七萬、合衆國は千七百十六萬、日本は千七百十九萬兩なり我と相距る僅かに一衣帶水の閒に在り而かも其交通は最も古くして恰も師弟の如く又兄弟の如き關係を有せる大帝國に對する我居留民の斯くの如く少數にして其貿易の斯くの如く少額なるは寧ろ意外の事にして我國民の怠慢と云はざるを得ず蓋し政府の當局者も對淸策を怠り其貿易を保護奬勵するの道を盡さず公使領事を撰ぶにも部内人物の遣り繰りを主として適任と否とを第二とし商人も多年蟄居の習慣を脱する能はず内に小利を爭ふ其閒に他國の商人は大膽に侵入して遂に今日の勢を順致したるものならん已むを得ざる次第なれども今や戰勝の餘勢として日本も地位を強國の閒に進め支那貿易に就ても種々の便利を得たるが上に政府も進んで保護奬勵に盡力することならんなれば商人も今までの小膽主義に安ぜず進で海外の地に外商と決戰するの覺悟なかる可らず戰爭の手際は如何にも立派なりしかども其結果は左まで面白き有樣にも非ざれば切めては通商上の新權理にても巧に利用して大勝利に稱ふ利益を收めざる可らず而して其新權理を利用して利益を收むるは商人の義務なれば兵士が滿州の野に奮戰せし勇氣を以て各開港場に商戰を戰ふこそ我商人の本分なる可きに事の實際を見れば甚だ奮はざるものゝ如し佛朗西の商人は支那に對して大に爲す所あらんと欲し夙に商業視察隊を派遣したれども我商人は意に介せざるものゝ如く英米の商人は逸早く上海に紡績會社を起したれども我商人は内外より促されて漸く昨今に至て事に着手し特に政府の筋にては商業視察員を新開港場に派遣し我商人を誘ひたれども坐して其報告を待つ積りにや招きに應ずる者少なかりしと云ふ蓋し役人の視る所と商人の見る所とは自ら異なる所ありて人の報のみにては隔靴掻痒の歎なき能はず身自ら實地を視察すれば種々の遺利を發見することもある可し我兵士の禮帽の前飾りとする白毛は元と香港より輸入したれども先年我商人が天津に赴きしに圖らずも右は天津邊の産なることを發見して爾來同地より之を輸入し又支那人が食事に箸を用ふるを見て獸骨にて製したる同品を輸出し煙管を用ふるを見てラオ竹を輸出し皆一の貿易品となりしと云ふ事小なれども亦以て實地視察の必要を知るに足る可し近年銀價下落して金貨國たる西洋の商品と競爭するの好機會にもあれば旁々以て大に奮發し戰勝の利益を商利に收めんこと我輩の切に希望する所なり