「・大に散ず可し」
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時事新報に掲載された「・大に散ず可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
・大に散ず可し
歳入を增加して大に散ずるの方法は如何と云ふに軍備の擴張は一國自衞の爲めにして其必要は既に世閒の認むる所なれば姑く擱き凡そ國の發達進歩は國民自營の力に外ならず商賣工業の如き政府のお世話の爲めに寧ろ迷惑を蒙りたることは多々なれども曾て好結果を收めたるの例を聞かず實際の事實にして人民自營の事業に政府の保護奬勵は無益の談なり我輩の敢て謝絶する所なれども文明立國の事は甚だ多端にして目下經營の急を要するもの一にして足らず其大なるものを計ふれば航海、築港、水道等の如き何れも欠く可らざるの事業なれども何分にも大計畫にして少なからざる費用を要しながら眼前に收益の見込なきものなれば之を人民の自營に一任するときは何人も着手するものなくして國民は非常の不利不便を感ぜざるを得ず發達進歩の爲め容易ならざる次第なれば是種の大計畫は國家事業として國力を持って成就せしめざる可らず文明諸國の實際に著しき事態なるに然るに我國にては未だ其の着手を見ず立國上の大欠典と云はざるを得ず或は從來とても其邊の立案計畫はなきに非ず事の急は充分に認めながらも費用の一點に窮して躊躇したることならんなれども前號に述べたる如く日本の國力能く其負擔に耐ふるは事實の數に明白にして決して掛念するに足らざれば斯る必要の事業は直に着手して國家永遠の利益を謀らんこと我輩の敢て希望する所なり扨事の急なるものを擧ぐれば第一は航海及び造船の保護なり商賣貿易の繁昌と共に外國航路擴張の必要は勿論にして外航の線路には是非とも相當の保護を與へざる可らず一方に航海を奬勵するときは一方に於て造船業の保護も必要にして兩々相待て日本の航運を盛大ならしむるは目下最急の處置なる可し又鐵道の如きは政府の奬勵を待たずして續々發企するものあり人民の自營に一任して差支なきが如くなれども自營の事業は眼前の收益を目的とするの常にして山脈の開通、大河の架橋等工事困難の場所は容易に事を企つるものなし斯くては運河交通の便利も充分ならずして功を一簣に缺くものにこそあれば斯る困難の工事は政府にて引受け速に功を成さゞる可らず海陸運輸の機關既に備はるも海陸連絡の關門たる港灣にして今日の如き有樣なるときは商賣上の不便利は幾許なるや知る可らず而して港灣の修築は年月を要し費用を要する大事業にして營利の起業に望む可らざるものなれば國力を以て着手すること適當なる可し又水道事業は東京大坂橫濱長崎函館等の外、相應の大都會にも未だ其設あるを見ず衞生上の一大缺典なりと云ふ可し我國にて年々流行病の爲めに死するものは平均三五萬の數に下らず況んや近年來虎列刺病は凡そ四五年目ごとに流行するの例を成して倒るゝもの甚だ多し今、國中の各都府に水道の計畫成りて衞生の實を擧げ爲めに死亡の割合を減ずるときは國の生産上には非常の利益なる可し宜しく國家事業として着手す可きものなり其他著名なる神社佛閣の保存と云ひ敎育學藝の奬勵と云ひ文明立國の爲めに國力を以て成す可きの事業甚だ多く然かも事の急を要するものなり多々ますます辨ずるの國力を蓄へながら何事にも着手せずして不如意に安んずるは恰も金を土中に埋めて貧乏を粧ふものに異ならず國家の不經濟これより甚だしきはなし既に世界の文明國を以て自から任ずる以上は大に取り大に散ずる文明の經國法を實行し以てますます立國の源を養はんこと我輩の切望に堪へざる所なり