「商賣と文明士人」
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時事新報に掲載された「商賣と文明士人」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
商賣と文明士人
商賣の氣風次第に變化し素町人の手を去りて文明士人に屬するは自然の成行なれども其變遷甚だ遲々として容易に實を現はさゞりしに近來の風潮は次第に急にして經濟社會一變の時機到來せしものゝ如し文明士人の大に奮發可き所なり蓋し學者士流の人々は學問智識自から世閒の第一流を占め政治上に社交上に勢力の盛なるにも拘はらず獨り商賣社會にのみ其地位勢力の微々として振はざりしは畢竟封建士族が金錢を輕んずるの思想を遺傳して錙銖を爭ふを屑しとせず商賣は素町人の事なりとて自から手を下さゞりしが爲めなれども既に商業立國の世の中となり平和の商戰に貿易上の輸贏を競ふの大切なるは干戈の戰爭に勝敗を爭ふに異ならず國家の獨立に兵備の缺く可らざると同樣商賣に非れば國を立つること能はずとあれば商賣は既に士人の事業にして大に力を致さゞる可らず何を憚りてか徒に躊躇す可けんや若しも彼等にして一たび奮然として其衝に當るときは文明商業の振興固より難からず我輩の確かに保證する所なり彼等の先輩故老は嘗て鎖國攘夷の説を唱へ翻天倒海の勢を以て一時國論を動かしながら天下の大勢は到底頑固一偏の攘夷論を以て制す可らざるを看破し一朝その非を悟るに及んでは忽ち文明日新の主義を執り開國の輿論遂に一世を風靡して三百年來の封建を破壞したり其勢力の非常なる驚く可し而して此士族の流亞たる今の文明士人は如何、士族と名くる階級的の勢力は既に見る可らずと雖も其精神は依然として滅びざるのみか更に新智識思想を吸收して陰然文明の中心點となり社會に勢力を占むるは實際の事實にして掩ふ可らず或は士人の得意とする所は學問識見にあり高尚なる思想活溌なる意氣は自から政治上の事業にこそ適當なれ商賣上には如何など云はんかなれども今の商賣は文明の事にして文明は即ち士人の事なり文明の士人にして其事に當る何の難きことかあらんや又或は商賣には自から商賣の祕訣あり支那人の無智智識を以てするも商賣營利の一點に於ては世界の文明國人に對し一歩も讓らざるを見ても知る可し機微隱約の閒に自から士人の學ぶ可らざる極祕ありと云はんかなれども今の士人は事の利害を判斷するの識見に乏しからず臨機應變の才は固より其長所にして彼の攘夷論と開國論との如き一たび利害を看破するときは翻然志操を一變して大勢に逆ふの愚を爲さず世と共に推し移るの特性に富めるは從來の實驗に徴しても明白なれば既に商業立國の世の中に處して商賣の爲めに一身を役するの決心は只是れ一朝夕のことのみ只從來の商賣社會甚だ狹隘にして大に文明士人を容るゝの餘地なきを以て躊躇遷延今日に至りし次第なれども今や時機既に熟し大勢切迫して商賣社會に文明の才能技倆を待つこと切なり商風一變の好機會正に是れ文明士人の大に力を試む可きの時なり我輩は嘗て其流の人々が維新革命の大業を成就したるの精神を以て更に商業革新の任に當り以て文明の業を全うせんことを希望するものなり