「北白川宮殿下の薨去」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「北白川宮殿下の薨去」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

近衛師團長北白川殿下は昨日を以て東京に薨ぜられし由官報號外を以て發表せられたり殿

下が近衛師團を率ゐて東京を發し給ひしは三月下旬にして威風凛々北支那の〓〓向は〓し

は北京城下の盟を爲さしめ給はんが爲めなら〓〓敵夜早くも〓〓して殿下の威武を拜せし

むるの機密なかりしは寧ろ遺憾なれども轉じて臺灣に向は〓〓れて以來大小幾多の戰鬪に

比類なき勇武を示させられ遂に強賊をして我軍門に降伏せしめ給ひし其御偉勲の百世に傳

へて武將の模範と爲すに足る可く而して其間の御苦心は筆紙の能く盡す所に非ずして國民

の只管〓〓する所なり五月二十九日師團を率ゐて三貂角に御上陸以來金枝玉葉の御身を以

て勿體なくも炎天荒地に暴露し給ひ時に風に櫛り雨に浴しつゝ路なき山谷を跋渉せられ又

時に木の根を枕に草の葉を褥として〓煙〓霧を犯し千軍萬馬の間に馳〓して士卒も忍び難

き困苦を忍ばせられしのみならず惡〓〓〓を極めて士卒の斃るゝもの日に幾百なる其間に

立たせられて意氣凛然少しも屈し給はず專ら賊徒征討に力を盡し給ひしは歴史上にも比類

なき御擧動にして部下師團兵の斃れし者半以上に及ぶも勇氣少しも衰ふることなく勇み進

んで賊の巣窟を屠りしは職として殿下の御勇武に感憤したるが爲めなる可し然るに殿下今

や則ち亡し草も木も殿下の御威風に靡きて全嶋既に鎭定したるの今日殿下に於せられては

或は御遺憾なかる可しと雖も吾々國民は國の爲めに斯くまでに玉體を勞せられ斯くの如き

偉勲を奏せられたる英明の御連枝にして勇武の大〓の御永眠と承りては只涙あるのみ殿下

は故邦家親王の第六子にして弘化四年二月十六日を以て京都に降誕せられ今年御齢四十九

歳なり