「私權の安否」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「私權の安否」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

私權の安否

文明社會と未開社會とを比較して人民の生活上に相違の點を求むれば私權の安然なるを然らざるとは著るしき事實にして一方には商賣工業發達して社會の繁昌を見る其反對に一方には商工業甚だ振はずして殺風景を呈する所以のもの畢竟この事實の結果に外ならず文明社會に法律を重んじ又警察を嚴にして人民の私權を保護するに專らなるの理由を知る可し我國封建時代の有樣を見るに專制の政略、巧みに人心を籠絡して一國の治安を維持し一般に不平を感ぜしめざりと雖も私權保護の一點に至りては頗る不行屆にして社會の發達を妨たること少なからず士族が切捨御免の權利を濫用して(假令ひ稀有の場合にても)無辜の人民を殺害し又政府が時として商人に御用金を課したるが如きは極端の例として姑く擱き社會一般の情態を如何と云ふに中央政府の所在地なる江戸の市中に於てさへも法律の保護不行屆にして私權に安全を缺き爲めに迷惑を蒙りたること少なからず例へば良家の子女が一人にて外出することもあれば路上に徘徊する無賴漢は種々の惡口雜言を放て之を辱かしめ或は泥濘を飛して衣服を汚すなどの亂暴さへ醉客の常として特に禁ずるものなきが故に子女の獨行は先づ稀にして止むを得ず門外に出るときは屈強の男子を伴ふて身邊を保護せしむるの必要あり又〓賣など稱する一種の破落戸あり公然商家の店頭に闖入して金錢の強談を逞うし若しも與へざるときは種々の亂暴を働き營業を妨らるゝも之を訴ふるに處なきより反對に是等の輩に賂して營業の安全を謀るの常なりき王政維新、明治の社會と爲りては各種の法律も備はり警察の仕組も整ふて人民の私權を保護するの用意は封建時代と同日の談に非ず社會の弊習大に改まりたるが如くなれども我輩の所見を以てすれば尚ほ遺憾の點なきに非ず十數年前或人が英京倫敦に在りしとき年頃の令孃が幾十里を距る田舍の地方より一人にて汽車に乘り首府に往復するを見て流石に英國は文明國なりとて感嘆したりとの談あり今の東京は舊の江戸に非ず子女が保護者を伴はずして外出するも途中に無禮を加へらるゝが如き危險は跡を絶ちたりと雖も一たび都門の外に踏出し年頃の娘が一人にて幾十里の路を旅して果して安心なりや否やとあれば遺憾ながら尚ほ未だしと云はざるを得ず又彼の〓賣などの騷動は近年沙汰を聞かざれども其代りに壯士と名くる一種の輩も生じて縁も由緖もなき他人の家に到りて金錢の強談を試みるは毎度の事なり或は其輩の如き多くは書生の落魄れたるものにて多少は文字を解するの力もあれば貧富平均など云ふ如き何か一定の主義にてもあるやと云ふに其所行を見れば單に錢を掠むを目的とするのみにして?賣の形を變へたるものに外ならず又大阪の市中などにては今日と雖も白日晴天に掏兒の橫行するもの少なからず婦人女子の輩が街上にて難に罹るものあるも通掛りの通行人は勿論、四邊の店に居る市人の如き眼前に之を目撃しながら知らざる爲して看過するの常なりと云ふ何れも實際の事實にして法律の保護尚ほ到らざる處あるを證す可し但し是等の事實は都會の地に行はれて人々の常に注目する所なれども田舍の地方に至りては更に甚だしき事實を存して爲めに社會の發達を妨ぐるの恐なきに非ず其次第は次號に語る可し