「・私權の保護」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「・私權の保護」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

・私權の保護

東京などにては壯士輩の出沒することあるも警察の取締も割合に嚴重にして殊に近年は豫戒令の如き法律も行はれ若しも其輩の強談に遭ふときは直に之を警察署に訴ふれば其筋にても直に之を處分するに怠らず實際に甚だしき迷惑を感ずることは稀れなれども田舍の地方に至りては單に壯士輩の亂暴のみならず私權の保護に關するの注意一般に行屆かずして漫に愚民輩の愚痴を逞うせしめ爲めに企業の發達を妨るの弊害今尚ほ少なしとせず文明社會の欠典として我輩の遺憾に堪へざる所なり例へば東京その他の資本家が田舍の地方を卜して鑛山、開墾もしくは製造等の如き事業を計畫するに當り地方民の妨害の爲めに困難するは毎度の事なり川上に鑛山を開かるゝときは沿岸何十個村の水田は流毒の害を免れず大資本家の一手に云々の事業を經營せらるれば地方の細民は業を失ふて生活に迷ふに至る可しなどとは無知輩の妄想にして本來聞くに足らざるの愚痴なるのみならず愚痴の裏面には他を苦しめて竊に利せんとするの目的分明なるにも拘はらず實際に其愚痴が通用して目的を達し企業者の損害に歸するとは驚入りたる事實ならずや或は株式會社の如きは株主も多人數にして對手に便ならざるが故に反對も割合に少なけれども一個人の企業とあれば奇貨居く可しとして苦情百出妨害の手段到らざる所なし左ればとて之に對して爭へば企業者の失敗に歸するの常なるが故に看す看す無益の錢を散じて其苦情に殉せざるを得ず事の行掛り中止を得ざるものは算外の錢を費しても着手することなれども新規の計畫に至りては斯る始末の爲めに思ひ止まるもの甚だ多し左れば今日の有樣にては鐵道敷設の如き其區域廣くして一部地方の苦情に關せざるものは兔も角も其他の企業は見込の確なるにも拘はらず廣く行はるゝを得ず即ち各種の工場等が都會付近の地に集中するに反し田舍の地方は寂寞の觀を呈する所以にして事業發達の妨害この上ある可らず文明の法律果して人民の私權を保護し私財私産の安全を維持するの精神ならんには法の執行を嚴密にして斯る妨害を去り事の發達を全うせしむるこそ其精神の實を得たるものなる可し試に眼を轉じて海外諸國の現状を眺め文明國は何故に盛にして未開國は何故に振はざるやと尋ぬるに商工業の點よりすれば第一に私權の安全なると然らざるとに由るの事實は一見明白なる可し其事實は他に求むるまでもなく英國の斯くなでに繁昌する其反對に支那朝鮮の有樣如何を見よ支那に於ては人民の私權に法律の保護なく大小の官吏貪欲を恣にして全く財産の安全を欠き自家の所得は自家の所有に歸せざるの有樣なるより人民が商賣勞働に利したる金は竊に之を土中に埋め纔に他の攪取を免るゝのみにして政府の官業の外、國中に事業を企つものなし現に馬關條約の結果として外國人が紡績事業を彼地に起すにも特に上海の一地方に限るが如き敢て其土地の便利なるが爲めのみに非ず同地は治外法權の區域内にして安心なりとの一事こそ上海を撰みたる第一の理由なりと云ふ内地一般に不安全の有樣以て想ひ見る可し更に轉じて朝鮮に至れば私權の不安全は一層甚だしく土中の金も尚ほ安心を得ざる程の次第なるにぞ其人民は自暴自棄、何事も爲さずして遊惰安逸に日を送りてますます貧弱を極め遂に現今の如き衰退を呈したるに非ずや私權の安全と不安全とは其關係する所甚だ大なるを認む可し今の日本は支那朝鮮と同日の談に非ず優に文明國の列に位して法律制度一切文明の風にして改良進歩も亦足らず人民私權の安全の如き大に注意して昔日未開の觀を一新したるは明白の事實なれども實際に尚ほ遺憾を免れざるの點ありとすればますます其點に注意して更に完全の實を擧げんこと我輩の切に希望する所なり