「・辭職勸告」
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時事新報に掲載された「・辭職勸告」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
・辭職勸告
此程一派の政客は總理大臣を官邸に訪ひ朝鮮事變に付き責任を負ふて辭職す可しと勸告したる由蓋し今回の事變は公使其人を得ざりしより生じたる間違ひにして初め其人撰を過りたるは正しく政府の落度たるに相違なければ政客にして之を非難するは當然のことにして怪むに足らざれども直に其人に逼て辭職を勸むるが如きは策の得たるものに非ざるが如し傳ふる所に據れば此勸告は政敵として逼るに非ず朋友として斯る場合には潔く辭職する方當人の爲め得策なる可しとの忠告なりと云ふ果して然らんにはますます其意の所在を解し難し凡そ平生の私交親しき閒柄に於て友人の身に毀譽の集るとき友誼上これを傍觀するに忍びずとて私に其進退に付て忠告を試むるは世間普通のことにして忠告を受けたる當人も其友情に感じ其親切を喜ぶことならんと雖も雙方の閒に何等の交情なきのみか寧ろ相反目するものが一朝事あるに當り突如として友誼上忠告すと云ふも誰か其言を聽くものあらんや馬耳東風に附し去らんずば則ち其禮なきを怒らんのみ今彼の勸告者は果して總理の友人なるやと云ふに議會に於て議論を上下せしことはある可し演説會に新聞紙に之を攻撃せしことはなきに非ざるが如しと雖も平生私交あるものとは思はれず私交なき政敵の友誼忠告、徒に其人をして惡感情を抱かしむるの外何の効能もなかる可きは明なれば所謂辭職勸告は寧ろ政治上の反對運動と見る方至當なる可し扨て反對運動として何の効能ある可きやと云ふに殆んど小兒の戲れに等しきのみ世に演説會もなく新聞紙もなく又議會の如きものもなき時代に於ては單刀直入直ちに其人に辭職を逼るも亦一時の方便として視る可きなれども今や政爭の武器は備はれり若しも當局者に於て失策あらんか演説會を開て之を攻撃し新聞紙に記して之を論爭し又議會に於て非難す可し何を苦んで辭職勸告の變則手段に出でんや變則手段も何か効能あれば又格別なれども凡そ執政者の進退は其一身上及び政治上の必要に依て決するものにして例へば此際若し自分は依然職に在らば愈々人望を失ふて再び勢力を回復すること能はざる可しとか若しくは自分が辭職すれば目下の難局を始末するに却て好都合なる可しと信ずるときに於て辭職を決心すること今日の習なれば假令辭職勸告者は其門に集るも右の必要に逼らざる間は決して其地位を棄てざるのみか却て反動を起して意地にも其椅子を固守せんことを勉む可し即ち勸告の無効なる所以にして是非とも其希望を達せんとならば矢張正則の手段に訴へ演説に新聞に將た議會に力を盡くして政策の非を非難し當局者をして辭職の已むを得ざるに至らしむるの外に策ある可らず特に短刀直入の變則手段は事稍や脅迫に等しく政爭をして急激に至らしむるの恐なきに非ざれば道を踏み迷ふの第一歩に於て之を戒めざる可らず是れ我輩の此文ある所以なり