「・自由黨と政府の合體」
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時事新報に掲載された「・自由黨と政府の合體」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
・自由黨と政府の合體
官民朝野一致協同して内地外交を滑にす可しとは我輩年來の希望にして過般自由黨が政府と合體せんとするの模樣ありとて世論の喧しかりしときにも我輩は事若し眞ならば至極結構のことにして何卒斯くありたきものなりとの次第を記したりしが今や風説は事實となりて雙方の閒に合同の協業整ひたるが如し當局兩者の意見は火と水との如くにして衝突烈しかりしかども多年相爭ふ間に政府に於ては一旦議會を開いて人民に參政の權を與へたる以上は己が思ふまゝに政を行はんとするも無理なる望みにして多數の政友を得るに非ざれば政機の運轉滑ならず大切なる國家事業も爲めに妨げられて起すこと能はざる次第を發明し自由黨に於ても人を相手の政治界に己が思うふ通りの政を行はんとするは行ふ可らざる注文にして取て代れば格別なれども政府の根據も案外鞏固にして容易に動く可くもあらず否なやの政府は倒るゝことあるも代て政權を握るものは矢張り同種類の政治家にして己が順番の廻はり來るは何時のことなるか杳として知る可らざるを悟り雙方より次第に歩を讓りて次第に相近づきたる際日淸戰爭破裂して政治の局面一變し海軍改革論は變じて軍備擴張論となり地租輕減論は化して增税論となり朝野の方向殆んど一に歸したるが上に外を見れば風波いよいよ烈しくして内に鷸蚌の爭を爭ふを容さず擧國一團と爲りて外に向はざる可らざるの必要に迫りたれば政府に於ては兼て希望する政友を民間に求むるは此時なりとて度胸を大にして在野黨を引込まんとし自由黨も公然政府と合體して其旗色を明にするは此時に在りとて扨は双方の間に縁談俄に整ひたることならん誠に目出度次第にして自由黨の意見も多少は必ず政府に容れらるゝことなる可く其人物も追々引き立てられて政府部内に地位を占めいよいよ合體の實を示すことなる可し是れまでも政府部内に屡々變動ありて内閣更迭も頻繁なりしかども其更迭と云ふは何時も同種類の人物が代はる代はる政權を握りたるまでのことにして曾て其間に異分子を交へず恰も走馬燈を見るが如くなりしに今回は明治政府の爲めには全く無難の他人なる在野の政客を入れて相共に國事を經營すと云ふ珍らしき變化にして追々連立内閣の姿を呈して終には政黨内閣を見るに至ることなる可し在野黨の爲めに天國は近けりと云ふも不可なきがごとし然れども只此一事を以て政機の運轉滑なる可し思ふは大なる閒違なり自由黨は最大政黨たるに相違なけれども其議員は百幾名に過ぎずして過半數に達せざること遠きのみならず或は今回の進退に不服を唱ふるものありて黨内に動搖を生ずるやも計られずと云ふは事の性質上、此進退に就て普く黨員に謀ること能はざりしは勿論にして只在京黨員の協議を經たる位に止まることならんなれば地方の黨員中には聞て案外の感を抱くもある可し其案外の感を抱くに乘じて反對黨は此所ぞ攻撃の好機會なれとて演説に新聞紙に論鋒を鋭くして自由黨はいよいよ軟化したり藩閥に降參したり節操を屈したりなど人民の感情を動かし易き語を以て縱橫無盡に攻撃しなば撰擧區の人民先づ動搖して代議士間にも異論を生ずることなきを保せざる其上に自由黨以外の諸政黨が大同團結を形造りて一致聯合し共に方向を共にして自由黨に向はゞ議會の多數は或は反對黨に占められて施政の難澁は依然として舊の如くなる可し折角の苦心も實際に効能なきことなれば政府は一歩を進めて改進黨をも入れざる可らず同黨には文明流の敎育を受けて譯の分りたる人物も乏しからずして嘗て政府と合體の姿を呈したることもあれば政府の申出し如何に依ては決して和合一致を辭せざるのみか自由黨とは本來其主義略ぼ同樣にして時に大に喧譁したることなきに非ざれども唯一時の變態にして本色に非ざれば兩黨の提携には少しも難澁を感ずることなかる可し特に今は内外共に多事の時にして大隈伯の如き有數の政治家をして空しく野に無事に苦しまむ可きに非ざれば旁々以て改進黨を容るゝこと目下の急務にして此兩黨を容れてこそ始めて政府と議會と方向を共にして施政の圓滑を得べし即ち我輩多年の宿望にして呉々も當路者に勸告する所なり