「・官設鐵道の不便」
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時事新報に掲載された「・官設鐵道の不便」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
・官設鐵道の不便
此程東海道鐵道に乘り京阪地方に旅して歸京したる一友人の談に曰く官線の不便、荷主乘客の苦情は毎度耳に熟する所なりしが實際を目撃して今更らに驚きたり先づ目に着きたるは名古屋の停車場にして諸方よる集まりたる荷物は廣き構内に幾堆の山を築きて既に幾日を經たるやを知らず又今後幾日を費して運び得るや殆んど圖る可らず幸に天氣なれば差支なけれども若しも一たび降雨に遇ひたらんには彼の堆積の荷物は悉皆雨に濡て荷主の損失は如何ならんなど思ひ扨京都に着したるに夜來端なく雨を催ほしたるにぞ客窓枕を欹てゝ點滴の音に餘所ながら心を惱ましたり夫より二三日を經て歸路、同じ停車場を過ぎしに堆積の荷物は依然山を成せる其廣き面積の上に所斑らに桐油を掩ひたるのみにして恰も膏藥の點々たるに異ならず山積の荷物の中には既に運び去りたるものもあらん又新に到着したるものもあらん其間に出入はありたるならんなれども其多分は山を成したるまゝ雨に濡れたることならん又鐵道開始の頃は上等の車に乘るものは極めて少れなりしが近來一般乘客の增加と共に上等の客も多くして一車十九人乘りの處に二十人以上の客を乘込ましむるが故に窮屈一方ならず中等に乘換へんとすれば上等さへ斯る次第況して中等の如き混雜名状す可らず止むを得ず車中に立往生の苦を忍び客車の用意ある停車場に至りて漸く苦境を脱するは好けれども之が爲めに更に到着時間延引の苦を見るは平常の事にして友人の如きも現に其苦を嘗めたる一人なりと云へり右は單に一人の經驗談に止まらず世間一般に苦情を訴ふる所にして大阪の商人などは荷物を送るに時日に頓着せざるものは汽車に托すれども急を要するものは汽船に依賴するの常なり又發着時間の如き時間表の面には正しく記載しあれども實際には曾て時閒通りに到着したることなく其延着は近來に至りてますます甚だし昨年來の戰爭中輸送の頻々行はれたる場合ならんには止むを得ざれども平常無事の時に於てさへ斯る始末とは如何の次第なるやと云ふ近年來乘客荷物の著しく增加したるが爲めに在來の客車貨車にては到底閒に合はず明白の數なるにも拘はらず鐵道局は舊に安んじて更に擴張の計畫なく實際に不足なる車輛を使用して無理の働を爲すが故に今日の如き有樣を呈して一般に不便を感ぜしむるものなり顧みて線路の收益如何と云ふに從來とても八九朱の利を見たることなれば本年の如きは一割以上に及びたることならん本來官設鐵道は營利の爲めに非ず一般の便利を目的とするものなれば其益金を擧て擴張の一方に向け車輛を買入るゝなり線路を增設するなり改良を謀るときは其不便は直に去るを得べし甚だ容易なるに似たれども實際に然る能はざるの事情あるは外ならず當局者の言を聞くに汽車の延着も事實なり荷物の澁滯も間違なし或は次第々々に積み遲れて荷をからげたる繩の腐りたるものさへ生じたることあり敢て白状する所にして世間の苦情は萬々承知なれども如何ともす可らざるは會計法の規定なり檢査の方法極めて嚴密にして收益の金は一厘一毛の微に至るまでも一切國庫の收入に歸して苟めにも流用を許さず而して支出の豫算は如何と云ふに極々切詰めたる勘定にして現形の儘を維持するの外は一輛の客車、一條の鐵軌と雖も增すことを得ず法の許さゞる處なるが故に止むを得ず今日の有樣に安んずるものなりと云ふ其言を聞けば至極尤もにして如何ともす可らざるが如しと雖も其如何ともす可らざるは只官設の事業なるが爲めのみ商賣人事の繁多なる今の世の中に一般の公衆に斯る不便を蒙らせながら其儘に附し去るとは如何にしても堪へ難き次第なりと云ふ可し