「獨立自衞の精神」
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時事新報に掲載された「獨立自衞の精神」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
獨立自衞の精神
獨立自衞の精神は人間の天性にして如何なる國民も之を備へざるはなし例へば臺灣の土民
が婦人小兒に至るまでも我軍に抵抗したるが如き又北米合衆國の人民が國を擧て獨立の爲
めに戰ひたるが如き何れも天性の眞を現はしたるものにして其精神は國の文野明暗に拘は
らず事に觸れて大に發揮するの實を認む可し只文明の國民は眞實必要の塲合に於て之を發
し未開の人民は動もすれば其發處を誤るの差あるのみ一種の杞憂論者は我國に西洋主義の
流行以來國民の愛國心は次第に衰ふるの〓〓〓斯くては國の行末覺束なしとて頻りに慷慨
悲憤〓るが如く成れども我輩の所見を以てすれば獨立自衞の精神は國民一般に知見を廣く
し外の事物に觸るゝこと多きに隨ひますます發達するものにして一國が外に對して自から
衞るの必要あらん限りは到底消滅す可きに非ず或は論者の如き封建鎖國の時代と比較して
今の國民に愛國心の乏しきが如きを感じて自から懷古の情に堪へざることならんか封建時
代の武士は苟も他の辱を受くるを甘んぜず死を以て面目を全うするの精神甚だ盛なりしと
雖も其精神は詰り自から衞るの必要に生じたるものなり當時の有樣を見れば中央政府の政
權は自から歸する所ありて三百年間太平の治を致したるに拘はらず大小幾多の諸藩國内に
駢立して互に競爭の姿を成し實際に干戈こそ交はざれうども藩と藩の關係は恰も對敵の有
樣にして寸毫の油斷を容さず自衞の必要を感じて武士道の盛なるを致したる所以なり然る
に王政維新の一擧に各藩は悉く廢せられて日本國中一統の下に歸し内に於ては互に衞るの
必要を見ず隨て武士道の沈淪を致したるのみならず恰も世界交通新主義輸入の時期に際し
て人心の混亂も一方ならざりしが故に或は其沈淪を認めて愛國心の衰へたるものと爲し其
原因を西洋主義の流行に歸して漫に慷慨することならんなれども然れども廢藩置縣の結果
は國内の競爭を一掃したるまでの事にして外に對する獨立自衞の必要は决して止みたるに
非ず否な鎖國の時代に在りては一般の知見外に及ばずして自から安じたるが故に外に對し
て自から衞るの觀念は割合に乏しかりしと雖も今の世界に處して立國の容易ならざるは何
人も感ずる所にして獨立自衞の精神果して人間の天性なりとすれば今日の時勢はますます
其發達を促すの結果なきを得ず今回の日清戰爭の如き又引續て彼の干渉事件の如き如何に
我國民に自衞の必要を感ぜしめたるや一般に認むる所なれども國民一般に其精神を發達せ
しむるには常に外の事物に觸れて自から知見を廣くせしむること肝要なり喩へば前年の攘
夷論者の如き最初は其氣焔當る可らざりしにも拘はらず一旦開國の曉に及んでは忽ち一變
して寧ろ洋癖に陥りたるもの少なからざるに反し眞實國權論を唱へて獨立を主張したるも
のは却て洋學者の中に多かりしが如き又平生軍備の不必要を唱へたるものが偶然洋行して
歸朝の後は軍備擴張論者と變じたるが如き獨立自衞の精神は知見の廣きに隨てますます發
達するの實を見る可し我輩はますます西洋の事物を輸入しますます西洋の主義を採用し一
般に知見を廣くして世界の事情を了解せしむるこそ國民の愛國心を發揮するに必要の手段
なる可しと信ずるものなり