「責任内閣の待機」
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時事新報に掲載された「責任内閣の待機」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
責任内閣の待機
政府と自由黨との結托は必ずしも責任内閣の端緒に非ず現政府が自由黨を率ゐて議會に反
對黨と爭ひ案外失敗することあるも我内閣は獨り天皇に對して責任あるのみにして國民多
數の向背如何に依て進退す可きものに非ずとの口實を以て無理に其地位を固守し或は自由
黨と結托せしものは伊藤總理のみにして政府全體の知る所に非ずとて事面倒となれば總理
一人辭職して其跡に矢張薩長の超然内閣を組織することも出來難きに非ざれども斯くの如
きは則ち自然の勢に逆ふものにして長久の策に非ざるが如し初め當局者は代議政治を開く
も與論の外に政府を維持し得べしと信じて所謂超然主義なるものを唱へたれども事の實際
に於て議會に多數の味方なき政府は事毎に不如意を感じて折角の計畫も實行すること能は
ず國事の進歩得て期す可らざる次第を發明し解散緊急勅令などにて其間を彌縫しつゝ内々
味方を作らんと苦心したるは何人も知る所にして時勢の必要は最早や曖昧姑息の彌縫策を
容せず遂に超然主義の發議者をして公然政黨の門に入らしめたることなれば事の順序とし
て又自然の勢として今の在朝黨が失敗したる曉には决然退引して反對黨に政權を渡さゞる
可らず若しも然らずして幾度び失敗するも依然其地位を固守せんとするが如きは當初わざ
わざ政黨と結托したる趣意に矛盾するものなり何となれば有力なる政黨を率る内閣に非ざ
れば四方より妨げられて事を爲すに足らざるが故にとて結托したるものなればなり或は日
本の政黨は尚ほ幼稚にして迚も大政を托するに足らずとの説もあらんかなれども政黨とて
何時までも小供に非ず總ての人事と共に進化したるは勿論にして今や観る可きの擧動多し
例へば平生に於ては時に無益の爭を爭ふて識者をして顰蹙せしめたることなきに非ざれど
も一朝外國と事あるに至れば飜然其紛爭を抛ち億萬の費用も一言の下に决して只管國の光
榮を冀ひ戰後の經營に巨額の費用を要するを見ては則ち年來の民力休養論をも打捨てゝ更
に增税論を主張するなど其國家を背負ふて立たんと欲する精神は髣髴として窺ふ可し更に
其人は如何と云ふに元老の眼より見れば政黨界の論客は何れも一介の書生過激の壯士と見
ゆることならんと雖も今は彼等も無分別の壯士に非ず年と共に何時の間にか齢を累ねて既
に四十前後所謂智慧盛りの人となり其間具に人生の艱苦を甞めたることなれば老年を尚ぶ
西洋諸國に於ても一人前として通用す可きは勿論にして特に日本の如き壯年を尚ぶ國に於
ては年輩に於て不足なしと云はざる可らず其これを若輩として斥くは忰の頭髪既に霜を帶
ぶるも尚ほ小供の如く思ふて安心せざる老婆に等しきのみ况して政黨の仲間にも元老あり
て之を率ゐるのみならずいよいよ政黨政治となり黨派の消長に依て内閣の更迭すること英
國の如くなるに至らば今日政黨以外に超然たる元老も思ひ思ひに方向を定めて孰れかの黨
派に投ず可きは明なれば政黨政治となりたればとて政權が俄に少壯者の手裡に歸して劇變
を生ずるが如き憂は萬々ある可らず左れば今回自由黨と結托したるを幸に公然議會に反對
黨と雌雄を爭ひ首尾よく勝利を得ば依然其地位に在て政を行ひ案外にも敗を執ることあら
ば一たびは議會を解散して國民の覆審を求むるも可なれども重ねて敗北して衆望の己れに
歸せざるを發明しなば穩に政權を他に讓りて時節の到來を待ち以て政機の運轉を滑にせん
こと我輩の切望する所にして當局者が自由黨と結托したるの眞意も亦此に存することゝ信
ずるなり