「歐洲航路の開始」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「歐洲航路の開始」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

歐洲航路の開始

日本郵船會社にては海外航路擴張の第一着手として歐洲線を開き先づ汽船六隻を以て毎月

雙方發着の定期航海を爲すの方針に决し船隻の注文並に實地の取調として社員を歐洲に派

遣せしめたり而して右新船の落成は凡そ一年間を要す可しと雖も目下臺灣及び遼東半嶋に

於ける兵員輸送の用を終り社務の閑を告るに至れば來る二三月の頃より在來の船舶にて試

に開始する見込なるやに聞けり航路擴張の一事は一般に必要を唱ふる所にして政府議會の

邊に於ても國費を以て保護の計畫なきに非ざりしかども種々の事情の爲めに未だ實行の運

びに至らざりしに偶然にも日清戰爭の結果として郵船會社は御用船の爲めに臨時の利益を

得たるを以て其利益を國家の公益に投じ今回の計畫を見たる次第にして近來の快事と云は

ざるを得ず近年國力の發達と共に外國の商賣貿易は次第に繁昌の一方にして航路擴張の必

要は何人も認むる所なり會社の計畫は此必要に應ずるが爲めにして實際にますます貿易の

發達を促すの結果は疑ふ可らずと雖も我輩の所見を以てすれば航路擴張の結果は單に貿易

發達の一事に止まらず國中一般の人心を刺撃して從來の偏屈心を脱し大に快活ならしむる

の効能必ず著しきものある可し抑も我國の人心は近來漸く活動して外に向はんとする折抦、

恰も好し過般の戰勝は一層、その心を動して日本は東洋の日本に非ずして世界の日本なり

との考を起し海外進取の精神を發揮したるは疑ある可らず大に喜ぶ可き所なれども扨その

進取の精神を實にするに當りて困却なるは海外の交通不便の一事なり或は現在とても世界

の海上到る所に外國船の往來極めて頻繁なり海外の交通差支なきに似たれども凡そ旅行は

不便窮屈を免れざるの常ながら其不便窮屈の中にも自から愉快を欲するは一般の人情にし

て自國の船を外國の船と相對して人情いづれを欲するや一考を要せずして自から明白なる

可し外國船に乘れば言語飮食等各種の習慣自から異にして萬事不便窮屈なるに反し自國船

なれば飮食起臥勝手次第食堂に出づるも日本流の儀式、特に面倒を覺えずして自然に整理

し相客に對して氣兼するの苦勞もなく甚だ氣樂にして海上幾十日の航路も殆んど内地の家

居に異ならず從來海外の旅行を思ひ立つものは少なからず彼岸に到着すれば知人朋友もあ

り諸種の便利も乏しからざれども何分にも途中の不便窮屈の爲めに躊躇したる次第なれど

も今、自國の船にて往復自在とあれば恰も四海一家の思を爲して外行を企つるもの必ず多

きに至らざるを得ず人心を奬勵して海外進取の勇氣を發輝せしむるの結果は我輩の疑はざ

る所なり然り而して會社の前途を顧みるに歐洲の航路は從來外國の會社にて定期航海に從

事するもの一二に止まらず何れも多年間の經驗を閲して資力も乏しからず日本の國力は近

來の發達異常なるにも拘はらず航海業の如き尚ほ幼稚にして先進國と肩を比す可きに非ざ

れば他に對して競爭などは素より思ひ設けざる所にして幸に先輩の末班に列して永く事業

を繼續することを得ば自から足れりとするものなれども兎に角に世界の表面に事を發表し

て日本の國旗を歐洲の航路に飜へしたる上は决して一會社の私事として見る可きに非ず會

社の事を企てたるは自から期する所あらんなれども國家人民は之を傍觀せずして其事を助

け國の面目利益の爲めに終りを全うせしめんこと我輩の切望に堪へざる所なり