「一見萬聞」
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時事新報に掲載された「一見萬聞」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
一見萬聞
誰れか百聞一見に如かずと云ふ一見の經驗もとより輕んず可らずと雖も世間凡百の事物に
悉く實地の經驗は人生の實際に許さゞる所にして到底出來ざる注文なる其反對に百聞の知
識を得るは甚だ容易にして單に百聞のみならず千聞萬聞多々ますます辨ず可し則ち讀書學
問の人生に必要なる所以なり或は其學問も雲烟過眼單に紙上の文字瞥見し去るに止まると
きは百巻の讀書、實地の一見に如かざることもある可しと雖も苟も心を潜めて古來の實歴
經驗に鑑み之を眼前の事實に照らして自から所世當事の實際に適用するの心掛あらんには
讀書學問は取りも直さず實歴經驗を得る一種の方便にして一巻の讀書却て百回の經驗に優
るの實も難きに非ず例へば書生が書を讀むにも政治論は壯快なり實業論は面白しとして其
壯快と面白さとに任せて漫然讀み去るときは讀み去て如何なる效能もなく他日事の實際に
當り政界に出でんとするには小役人と爲るか又は壯士の群に入りて次第に立身を謀るの外
なく又商賣人と爲るにも年季奉公の丁稚と伍を成さゞるを得ず斯くては讀書學問も致方な
けれども最初より大政治家たり大商人たるの心掛を以て政治論實業論を讀みたらば自から
心に會得する所ありて實際の事に臨んでも思半ばに過ぐるもの多く政界商界の事に臨んで
も思半ばに過ぐるもの多く政界商界の眞味を解するは必ずしも小役人年季丁稚の經驗を待
たざる可し或は讀書學問を以て單に書生の事と爲すものあれども實際の事に當れば當るほ
どますます必要にして如何なる境遇に處しても其心掛は决して忘る可らざるものなり例へ
ば商賣實業の事を見るにも之を處するに所謂一見の流義を以てするときは自家の經驗上新
奇の事に遭ふごとに始めて一の新經驗を得るに過ぎず終日車に乘りて奔走し終夜眠らずし
て考を凝らすも一見は詰り一見にして一日一見の經驗を增すのみなるに反し若しも忙中半
日の閑を偸んで讀書學問に費すときは百聞の知識を得ること難きに非ず即ち單に事務に役
せらるゝときは一日に一見として十日にして十見、二十日にして二十見の經驗に過ぎざれ
ども半日の讀書に百聞の知識を得るものとすれば一日一見の經驗を益する其上に十日にし
て千聞、二十日にして二千聞の知識を利す可し斯くて其千聞萬聞の知識を實際一見の塲合
に應用するときは其功德は無學なる經驗家に比して必ず幾倍の成跡ある可し左れば如何な
る繁劇の事に當る人と雖も一日の時間を兩分して其一半は事務に鞅掌して一見の經驗を勉
むると同時に〓の一半は讀書學問に心を潜めて百聞の知識〓〓〓の〓〓肝要なり若しも世
の中に文字印刷の發明なき時代を〓んには〓の神農氏の顰に傚ひ世間凡百の事物を悉く〓
〓盡して始めて其味を知るの外なけれども今の文明社會には書〓と名くる利器ありて古今
幾多の人々が幾千百年の間に於ける經驗實歴もしくは學者、技術家が千思萬考の上、發明
したる成跡結果を一巻の中に収めて細大遺さず又新聞紙なるものあり内外各地のあらゆる
出來事を日々記載して坐ながらにして世界の事情を知るに足る可し吾々今人たるものは斯
る便利の世の中に處し僅々數時間の閑を費して世界古今の知識を得るの地位に在りながら
何を苦んでか一見の經驗のみに依賴するの愚を學ぶ可けんや我輩は敢て一見百聞に如かず
と云はず唯世人が讀書學問に重きを置き多々ますます讀み多々ますます知り百聞千聞萬聞
を勉めながら然かも一見の實を忘れず以て處世當事の實際に益せんことを希望するものな
り