「三菱社の美擧」
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時事新報に掲載された「三菱社の美擧」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
三菱社の美擧
今度郵船會社にて歐洲航路に使用の爲め新に製造する船舶は都合六隻何れも噸數七千五百
噸長さ四百五十尺一隻の價凡そ七十萬圓の豫算にして社員重役の一行が英國に到着の上、
同處にて注文する筈なれども六隻の中一隻は長崎なる三菱の造船所にて特に製造を引受け
噸數容積を始めとして一切の構造外國製と寸分違はざるは勿論、代價の如きも必ず同額に
て出來の約束なりと云ふ從來日本にて造船の數は少なからざれども七千噸以上の大船を造
るは今回始めてにして三菱の造船所は私立の中にて國内第一の規模を具ふるにも拘はらず
其製造に付ては百事不如意を感じ一切の材料を外國より買入れ又技師職工の如きも或る部
分は外國人を雇入れて着手する始末にして事の難儀は容易ならず斯くて外國同樣の代價を
以て同樣のものを造るには實際に凡十萬圓内外の損は免れざる勘定なりと云ふ斯る製造を
引受けて割に合はざるは分切たることなるに然るに敢て事に當りたるは如何なる次第なり
やと云ふに自から損失を覺悟して工事の經驗を積み以て造船業の發達を謀るの目的に外な
らず目下我國は航運擴張の時節到來して船舶の需用甚だ盛なれども造船業は尚ほ不慣にし
て時として修繕さへも國内にて意の如くならざるの塲合少なからず遺憾千萬の次第なれど
も其發達には實地の經驗を積むこと必要にして經驗の爲めには自から損失を冐さゞるを得
ず三菱社は今度の製造に自から經驗の苦を甞めて斯業の發達を謀り次第に經驗を積むに隨
ひ次第に規模を大にして遂には一萬噸以上の軍艦をも製し得る程の大仕掛と爲す遠大の目
的にて扨は眼前の損失を覺悟の上、自から進みて引受けたるものなりと云ふ世間に大企業
の志あるものは少なからずと雖も眼前に莫大の損失を冐して永遠の大成を期するは株式會
社などに行はる可らず三菱の如き有力者にして始めて能くす可きのみ我輩平生の論に富豪
大家を國の爲めに必要なりと認めたる其趣意も凡そ是種の大事業に當りて大資本の力を〓
らんが爲めにして大に望を屬したるにも拘はらず世間曾て事に當るものなきは遺憾の次第
なりしに然るに三菱社今度の計畫は恰も我輩の意を得たるものにして近來の美擧として大
に稱賛せざるを得ず三菱の如きは眞に大家の本分を忘れざるものと云ふ可きなり