「葉煙草專賣法案」
このページについて
時事新報に掲載された「葉煙草專賣法案」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
葉煙草專賣法案
民業は自然の法則に順て自由に運動することを得れども官業と爲れば事の性質上自から窮
屈なる人爲の規則に束縛せられて健全なる發達を遂ぐること能はざる其趣は猶ほ野生の樹
木を抜き來て盆栽と爲すが如し利害のある所明白なれば民業を取て官業と爲すは萬止むを
得ざるの塲合に限る可し今度政府は葉煙草專賣法案なるものを提出せし其趣意は總ての葉
煙草を政府に納付せしめて更らに之を煙草製造人に賣却し其間の利益を以て國庫の収入と
爲すものにして豫算に據れば凡そ七百萬圓の新税を得べしと云ふ增税は目下の急務なれば
煙草を一の税源とするは至當のことにして毫も不同意はなけれども其專賣權を握らざれば
徴税すること能はざるや否や將た專賣法よりも寧ろ從來の印紙税法に從ひ其税率を增す方
便利ならざるや否や宜しく思案す可き所のものなり當局者の説明に依れば新法は舊法より
も簡便なりとあれども事の實際を推察するに全國の各處に産する其産額を政府の一手に歸
せしめんが爲めには嚴重なる檢査、緻密なる手數を以て生産者を煩はすと共に又隨て種々
の弊害を生ずるやの心配なき能はず其次第は第一葉煙草を買収するに其直段は何を標準と
して定む可きや物の價は自然の競爭に任ずれば自から歸す可き所に歸すれども規則を以て
之を定むること容易ならず作に豐凶あり品質に等差あり内外の需用供給、金融の緩慢、爲
替相塲の高低、一般の景氣等、千百啻ならざる要素を勘定して至當の價を立つること至難
の業にして耕作者は種々の事情を述べて一錢にても高からんことを求め當局者は寧ろ安か
らんことを望みて其間に衝突を生じ實際耕作者をして案外の利益を得せしむることもある
代りに亦案外の損失を蒙らしめ結局適從する所を失はしむるの弊なきを期す可らず次は耕
作地の檢査にして耕作者の申出に僞なきや否や一反歩の耕作と稱して實際一反五畝歩を耕
さゞるや否やを確めんには檢査官を派して實地を見せしむるの要あるのみならず一地方數
里に亘る煙草畑に就き某の耕作地は何反何歩、某は幾反幾畝歩なるか一々測量せざる可ら
ず幾多の測量人、費用、時日を要するは勿論にして其手數の煩雜なる迚も實際に行屆く可
きに非ず又法案に據れば葉煙草耕作者は収穫の時及び乾燥を了りたる時は政府の申出で檢
査を受く可き筈なれども其檢査こそ甚だ難儀なる可しと云ふは外ならず煙草の収穫は稻を
苅り芋を掘るが如く一時に取り入るゝものに非ずして一莖數十枚の葉を下より順次に今日
も一枚、明日も一葉と長き間に収穫する其趣は恰も菓物を取るに順次に熟したるものより
収穫すると同樣なれば其間に不正の事なからしめんには多人數の官吏が百姓と共に今日も
明日も朝より晩まで畑に出張して監督せざる可らず其乾燥を了りしときの檢査ももしや隱
匿するものなきや否やを見ん爲め家の隅々、納屋の天井、土藏の床下までも捜索せざる可
らず耕作者の迷惑は尋常一樣のことに非ざる可し特に我輩の心配する所は品質の鑑定に於
て官吏の所見と煙草製造人の所見と相一致するや否やの點にして掛りの官吏が葉煙草の品
位を例へば上中下に分ち夫れ夫れ相當の代價を拂ふて政府の倉に納れたる後これを煙草製
造人に賣渡すに當り官吏が上等とせしものを製造人も上等と認め中下等は中下等として
各々相當の代價にて買取れば至極結構なれども若しも相方の見る所一致せずして政府が上
等とせし所のものを製造人は中等又は下等の品位と認め政府の定めたる相塲にて買取らざ
るが如きことあらば如何、賣残りの葉煙草は官庫に堆積して其始末に困却することならん
當業者の云ふ所に據れば近年は化學作用にて薬煙草の色合、光澤等を巧に變化せしめて劣
等の品を優等のものと見せ掛け大抵の人には其優劣を見分ること難しとのことなれば右の
如き鑑定違ひは萬なしと云ふ可らず况して此類の事に就ては一種の魔力能く不可思議の働
を爲すの常なれば下等の品が上等のものに化して掛官の前を通過することもある可し是等
の困難を切り抜けて政府の倉に賣殘りを生ぜしめるは至難の業と云はざる可らず買入に付
て右の如き困難あるのみならず密賣買を防ぐに煙草製造人の取締も一入の難事なり何とな
れば耕作者に付ての檢査は前記の如き次第にて迚も十分に行屆かずとあれば一歩を進めて
製造人の方に眼を配り彼等の一擧一動を視察すること警官の犯罪嫌疑者に於けるが如くす
るに非ざれば密賣買を防ぐに足らざればなり左れば舊來の印紙税法に於て脱税を防ぐは面
倒なりと云ふと雖も前陳の面倒困難に比すれば舊法却て簡便の觀なきにあらざるが如し尚
ほ聞く所に據れば煙草の良否は葉煙草其物の良否如何に在りとは云へ亦大に調合の巧拙に
因るが故に製造人の中には特に私に耕作地を所有し手間も費用も構はずして最良の葉煙草
を作り調合の料に供する者多しと云ふ然るに專賣法に據れば製造人は耕作を兼ぬることを
得ずと定められたるが故に葉煙草の耕作は之が爲めに自から退歩せざるを得ず然かのみな
らず事に直接の利害を感ずる商賣人を瞞着するは難けれども元来斯業に素人なる官吏を欺
くは易きが上に凡そ最上の物を最上の直にて賣るよりも普通の品を普通の價にて賣るは易
きが故に耕作人は辛苦最上の品を作らんよりも寧ろ中等品を作らんとするの傾きを生ず可
し是れ亦專賣法の葉煙草耕作に關し其退歩の媒介として見る可きものなり今や專賣法案は
衆議院審査委員の手に在り其利害の議塲に討論せらるゝは不日の中にある可し參考の爲め
聊か所見を記すこと斯くの如し