「土耳古政局の眞相」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「土耳古政局の眞相」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

土耳古政局の眞相

東に於ては支那、西に於ては土耳古共に是れ均しく舊文明の代表者にして又共に均しく世

界の厄介物たり厄介時に或は忍ぶべしとするも動もすれば列國紛亂の噴火口たらんとする

は我輩の看過する能はざる所にして殊に近日西來の新聞紙は土耳古事件の益す難局に入ら

んとすることを報ずる者にあらざるはなくアルメニヤ人の虐殺せられたるもの已に十萬餘

人に達し殘る五十餘萬人は山野に逃避して將に餓死せんとするばかりなりと云ひ或は土耳

古の外務大臣にして英國公使館に逃げ込みたるサイドパシヤは列國公使の間に遊説して最

後の手段に出でざらんことを哀求しつゝありと云ひ或は宮中の露國黨いよいよ勢力を占め

露國に依賴して局面を一變せんことを欲すと云ひ事態の益す困難なるを示すものにあらざ

るはなし我經世家に於ても注目、怠るべからざる所なるべし或は日本の土耳古と相距つる

こと地理上に於て數千里なるが故に其事變の影響も亦數千里の距離ありとて耳を土耳古の

變報に傾くるをもの懶とするものもあらんかなれども已に一たび世界の舞臺に上りたる以

上は斯る近視眼の議論は極めて危險にして現に日清の戰端開かるゝに當りて露國が其艦隊

を東洋に集中して同時に歐洲諸國に關する外交の手を緩るめ專ら其國力を東洋にのみ注ぎ

たるが如きは列國外交上の掛引に東洋西洋を天秤の兩端と視做し彼に抑へて此に揚るの關

係あるを見る可し我輩は經世家が土耳古の事變を見ること猶對岸の支那に起りたる事變を

見ると同一の注意を以てせんことを希ふものなるが偖て土耳古に於ける外交上の形勢を知

らんと欲せば先づ其内政機關の秘密に通ぜざる可らず土耳古の内政と云はゞ何人も彼の如

き專制國に於ては皇帝即ち眞實の統治者なりと思ふならん假令ひ或は然らざるも全權は内

閣諸大臣の手中に在りと信ずるならんなれども事實は全く然らずして名もなき宮中の僧侶

こそ一國の執權者なり抑も土耳古皇帝の尊嚴なる所以は其政治上の權力にあらずしてマホ

メツト敎の最高祭司として國民現世の禍福を司るのみか來世の冥福までも其掌中に存すと

稱するの一義にありて若し此最高祭司たる職分なからんには一日も至尊の位を保ち得べき

にあらず而して此の職分たるや土耳古皇帝の祖先がマホメツト敎祖の子孫より僭奪したる

ものにして其名は奪ひ得たれども其實は奪ふを得ずして皇帝の下にはアレマスと稱する敎

法師ありて宗敎に關する一切の全權を掌握し十九世紀文明の眞晝中に於てすら豫言を爲し

かねまじき劍幕にして萬一皇帝が此の法敎師の歡心を失ふことあらんには彼等は皇帝を以

て神意に適はざるものとして國民の叛亂を敎唆せんばかりなれば主權者、主權を有せずし

て却て法敎師に驅使せらるゝの有樣なり現に今回の虐殺事件に就ても皇帝アブダル ハミ

ツド二世は明にアルメニヤ人虐殺の非行を識認し歐洲強國の勸告を容れて改革を行はんと

欲するの念あれども彼の法敎師等が内より遮て犬豕の如き歐洲諸國の干渉に屈するは神慮

に適はずと爲すが爲めに内、軟にして外、硬を粧ひつゝあるものにして其心事に立ち入ら

ば世界の中最も憐むべき地位に立つものは土耳古皇帝なることを發見す可し土耳古の政府

は政治と宗敎との二重機關の爲めに其運轉を遮らるゝこと斯の如くなる尚ほ其上に曾つて

一旦内閣にありしものは皆年金を受るの定規にして此等前内閣の大臣等は外は各國公使と

交際あり内は政府宮中の内情を熟知し或は皇帝に親信せらるゝものあり或は法敎師に推尊

せらるゝものもありて其勢力は遙に責任の爲めに自由を制せらるゝ現任の内閣大臣よりも

大なるものあれば動もすれば黒幕の中より手を差し出して干渉を試み政治の運轉を妨害す

るもの少からず此黒幕こそ即ち各國公使の乘ぜんとする間隙にして或は甘言を以て或は好

餌を以て之を誘ふの結果黒幕中に露國黨あり英國黨あり佛國黨あり互に競ふて其親近する

所の公使の意見を貫徹せしめんと謀るの風あり英露の強を以てするも其強は以て内閣を動

かすに足らず陰密の手段によりて此等の黒幕を動かすこと多き者の勝利となることにして

即ち俗に云へば黒幕を買ひ込む者の勝となるの常なり此の如く皇帝は法敎師に動かされ内

閣大臣は黒幕に支られ其法敎師は又流俗に媚びんとし黒幕は利害のために外國公使に動か

され一言にして評すれば土耳古は國家として一定の意志を生ず可き本源なしと云ふも可な

り其列國に迫られて尚ほ决然たる返答を爲さず曖昧の間に頑固を貫かんとするが如き風あ

るは必ずしも外交の掛引あるにあらず唯以上の如き事情に掩はれて一定の意志を發するこ

と能はざるが爲めなりと知る可し國家存亡の命運に關する事にすら此の如く緩慢曖昧なる

政府なれば内政に至ては腐敗を極め殆んど局外人をして信ずる能はざらしむるものあり殺

戮は獨り亞細亞土耳古の地方に止るが如くなれども叛亂の氣は全國に通じ宗敎の異同に論

なく現朝廷の羈扼を脱するの機會を窺ふものゝ如し手短かに土耳古の現状を語れば其根本

より動搖しつゝあるものにして或は皇帝廢立の手段によりて暫時の平和を保つことあらん

かなれども紛擾終に已む可きに非ず分裂は有無の問題にあらずして遲速の問題なる可し而

して遲速の遲に傾く所以は露國が其全力を絶東の經營に注ぎて寧ろ土耳古を現状のまゝに

安ぜしめ徐ろに其宮中府中の多數を制せんとするの政略を抱くによるものなるが故に形勢

の變に由りては露國は何時活溌に土耳古に對する運動を初むるやも知るべからず之と共に

絶東の形勢も又自から變ぜざるを得ざるべし兎に角に土耳古の形勢の我に取りて輕からぬ

關係あること支那と大差なしとせば我輩は經世家が一層歐洲外交の局面に注目せんことを

望むものなり