「半嶋問題と大陸問題」
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本文
半嶋問題と大陸問題
熟ら我國民心の状態を察するに動もすれば朝鮮に於ける我勢力の消長に熱中し若しくは遼
東の殘夢を追ふて果てしなきものゝ如し固より當然の人情ながら世界外交の局面一變した
る今日に方りては更らに限界を廣くして全局の大變に應ずるの覺悟こそ肝要なれ抑も日本
國民が朝鮮半嶋に重きを置きしものは其天然の地勢より政治上の關係に至るまで歐洲列國
の間に在るバルカン半嶋の事情に彷彿たるが爲めにして彼の遼東論の如きも此半嶋を大陸
の威力逼迫より保護せんとするに外ならざる可し自から時勢の急に應じたる議論にして我
輩も亦同意を表する所なれども今や歐羅巴に於てはバルカン半嶋よりも寧ろ重大なる土耳
古問題の生ずるありて列國の均勢を破らんとすると共に東洋の禍機は朝鮮半嶋のみに止ら
ずして支那大陸にも其破裂の口を求めんとし塲合によれば半嶋問題は後日の談となりて大
陸問題の方、先發するやも知るべからず極言すれば憂患は寧ろ朝鮮半嶋にあらずして支那
大陸に在りと云ふも或は當ることある可し斯る局面の變化に心付かずして尚ほ半嶋問題に
のみ苦心するは我輩の感服せざる所なり初め我國が支那帝國に向て大打撃を加ふるまでは
歐洲列國は支那を以て長夜の睡眠を貪る猛獅となし黄龍の旗を輕蔑しながらも陰に之を恐
怖しつゝありしに日本軍隊の打撃に遇ふては中華の猛將精兵も木の葉の如く散り失せたる
を見て偖ては猛獅と思ひしも實は猛獅にあらずして聲のみ大なる驢馬なりしかと悟り此よ
り朝鮮半嶋の經營に全力を盡すの迂濶なるを知て直に支那大陸の經營に着手したるものゝ
如し其表面に發したる事實多き中にも露國が膠州灣を借りて冬季の軍艦碇泊所としたるが
如きは最も著しきものにして我輩は此一事に由りて東洋禍機の破裂を早むること十年なり
と斷言して憚からざるものなり蓋し膠州灣は獨り山東省の要地なるのみならず黄海支那海
全體を控制するに足るの形勝なり有力の艦隊を以て之を守れば香港の北、對馬海峽の西、
また敵國の軍艦をして隻影を留めしめざるに足るとは兵家の言にして日清談判に先だち我
某將軍は此地を併せて山東を割かしめんことを主張したることありと云ふ兎に角に膠州灣
の形勝たる何人も疑ふべからざることなるに露國は之を借用するのみならず已に六千のコ
サツク兵を乗せたる軍艦は該灣に入りたりと傳ふるものあり我輩は曾て五六千人の陸兵を
乗せたる軍艦が浦鹽斯德港を出發したれども行く所を知らずと報ぜられたるを記憶すれば
此事或は事實ならんか假りに今日に於て事實ならずとするも早晩事實となるの日あるは疑
ふ可らず英國の諸新聞が此電報に接して痛言切論するも亦决して謂れなきに非ず膠州灣の
借用は山東省の占領と爲る可く黄海覇權の主張と爲る可し事ここに至ては支那の状態は土
耳古よりも甚だしく恰もダアダ子ルズの海峽を明け渡したるに均し大陸問題の禍機は寧ろ
半嶋問題よりも早からんと云ひしも自から無稽ならざるを知るべし我輩は徒に慷慨悲憤の
運動を促さんとするものにあらざれども我經世家が半嶋問題中に頭を葬ることなく更らに
其眼界を廣濶ならしめて大陸問題に應ずるの準備を怠らざらんことを勸告するものなり