「港灣修築」
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時事新報に掲載された「港灣修築」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
港灣修築
政府が議會に提出したる新計畫を見るに其規模いづれも狹小にして我輩の失望する所なり
抑も一昨年來戰爭の爲めに我國の散財は少額に非ざれども其金は决して苦しき算段より支
出したるものに非ず國力發達の結果國民銘々の懷に餘裕を生じたる折抦、偶然戰爭の破裂
を見たるより競ふて餘裕の金を出し其事を助けたるまでのことにして恰も道樂の爲めに散
財したるに異ならず素より償還を望まざるのみか戰爭の結果は彼の通りの次第にして二億
兩の償金を収め得たる其償金の中、遼東半嶋の代償金を併せて現金一億二千萬圓は確に領
収して我手中に在り或は其金の處分に就ては種々の説もあるが如しと雖も詰り一塲の賭博
に勝を得て偶然に儲けたると同樣のものなれば之を目下の必要事に支出して吝しむ所はあ
る可らず左れば事業の計畫に金の一點は掛念するに及ばずとして其計畫は差當り外に對す
る軍備の擴張と内に於ける實業發達の奬勵とに外ならず我輩は先づ内の事より論ぜんに政
府は今回航海業奬勵の爲めに航海奬勵法案並に造船保護法案を提出したり其細目に就ては
自から利害の論もある可しと雖も大體の精神は全く異議なしとして其法にして實際に行は
るゝときは海外の航路も次第に開け又造船の業も發達して航海業の隆盛を見るに至ること
ならん誠に喜ぶ可き次第なれども首を回らして國内の港灣を見れば何れも天然の儘に一任
して曾て人工を施したることなきがゆえに船付の便利甚だ惡しく眞實の良港として見る可
きものは一個所もある可らず差當り開港塲の有樣を如何と云ふに橫濱の如きは前年より築
港に着手して今尚ほ工事中のよしなれども其捗取り甚だ遲々としていよいよ成功は何年の
後に在るや知る可らず其他神戸と云ひ凾館と云ひ長崎と云ひ新潟と云ひ一として人工を施
したるの港を見ず現に全國第一の市塲を控へたる東京灣の如き世人の知る如く遠淺にして
船舶は凡そ四五浬の沖に碇泊せざるを得ざる其不便は尚ほ忍ぶ可しとするも少しばかりの
風波にも忽ち端舟の往來を絶つが故荷の揚卸の爲めに空しく時日を消費する其不便は容易
のものに非ず又冬季の間、北海の航海は難儀なりなど稱すれども其實は海を航するの難き
に非ずして港に碇泊するの難きなり今代の船舶を以てすれば北海の風浪敢て意とするに足
らざれども彼の新潟港の如き船の碇泊最も困難にして風の方向少しく惡しと見るときは荷
卸の半にも忽ち舟を出して佐渡に避けざるを得ず斯くて忽ちに入り忽ちに避け終始出入に
忙はしくして全く荷卸を終るには凡そ一個月を費す可しと云ふ即ち冬季に北海航海の難き
は海の荒きに非ずして港の惡しきが爲めなりと知る可し國中到處の港灣斯る次第にして一
個所の良港をも見出すこと能はずとありては假令ひ航海奬勵の效を奏して海上に船舶の縱
橫を見るに至るも其船は只海を走るのみにして容易に出入を得ざる其趣は家の玄關より門
に至るまでの道路甚だ窮屈にして門前の往來には馬車人力車の通行頻繁なるにも拘はらず
僅々たる近距離の窮屈に妨げられて出入の不便を感ずるものに異ならず堪へ難き次第にし
て斯くては航海の發達も遂に望む可らず英國などの例を見るに其港灣は决して之を天然の
形に一任せず何れも人工を施して現在の便利を開きたるものに外ならず器械、工學進歩の
今日、金さへ費せば港灣改築の如き容易の業にこそあれば速に着手して人工の良港を造る
可し政府の豫算案には函館港修築補助費の目あれども今日の塲合に當り凾館の一個所に多
少の修築を加へたりとて格別の効能もなきことなれば須らく計畫を大にし國中必要の港灣
には悉く人工を施して完全の良港と爲す可きものなり其塲所を云へば差當り東京大阪を始
めとして橫濱神戸等の開港塲は申す迄もなく國中の大都會を控へたる港灣例へば名古屋の
熱田に於ける仙臺の松嶋に於ける如き又その他九州北陸北海の諸港の如き一にして足らず
何れも必要の港灣にして何れも改築を要するものなり航海の如き金を給して保護するとき
は直に發達を見る可しと雖も港灣の修築は塲所に由りては工事も困難にして其完成は自か
ら年月を費さゞを得ず一日も躊躇す可きに非ざれば目下議會の開會中に其事を决して速に
着手の運びに至らんこと我輩の希望に堪へざる所なり