「議會の所見果して如何」
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時事新報に掲載された「議會の所見果して如何」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
議會の所見果して如何
海國たる日本國民は特に海軍に依賴して内外に心身を安くするものなりとは我輩の持論に
して其擴張を云ふこと久し政府は英斷に乏しく其擴張案を提出の儘に止めて自から小規模
に甘んずることもあらんか一般の人心はますます不安の度を增して全く外に向ふの勇氣を
失ひ外國貿易の如きは大に發達の望なきに至る可し人民が外に出でゝ商賣起業に從事する
は背後の國力を賴にして自から安んずる所あればなり然るに其國力は甚だ賴み少なくして
安心を期す可らずとあれば誰れか自から好んで危險を冐すものある可けんや例へば海外の
航路の如き單に船舶を往復せしむるに止まるものなれば一旦危險の塲合には往復を止めて
内國に引揚ぐるか然らざれば其船を抛棄すると覺悟すれば夫れ迄にして損害も割合に少な
けれども事業の計畫に至りては悉皆の資本を海外の地に卸すものにして一旦の塲合に之を
抛棄するが如き容易の次第に非ざれば實際に安全の保證なき以上は自から進んで着手する
ものはある可らず或は同じ海外の土地にても彼の上海の如きは治外法權の勢力甚だ強く現
に日清交戰の際にも安全を保證されたる程の次第にして假令ひ我力の足らざるも他の力に
依賴して安全を得べきが故に先づ以て危險も少なかる可しと雖も馬關條約に由て新に開き
たる新開港塲の如きは果して如何、政府にては官吏を派遣し居留地の區域等も略ぼ取極た
るよしなれば我商賣人製造家等の外出を希望することならんなれども其邊の人氣は頗る物
騒にして官吏の一行さへ内々戒心を要したることもありと云へば商店を開き又は事業を起
すが如きは甚だ危險にして容易に思ひ立つものはある可らず左れば斯る塲所には平時と雖
も軍艦の二三隻は常に碇泊して居留民を保護するの必要あるは勿論、况して臺灣の警備と
云ひ戰後に於ける東洋の形勢と云ひ海軍の擴張は目下焦眉の急なるに然るに今回の如き小
規模にては一般の安心を得ること到抵難かる可し人心萎縮して外に出るの勇氣なきは尚ほ
忍ぶ可しと雖も斯る始末にして何かの機會に際したらば内國の安全も或は覺束なかる可し
とていよいよ不安の度を增していよいよ解體の有樣に陷ることもあらば如何す可きや我輩
の憂慮に堪へざる所なり或は擴張々々と一口に云へども軍艦の製造は少なくも三四年の日
月を要して如何なる大計畫も其計畫は即時に實行を見る可きに非ず一日片時を急ぐの必要
はなかる可しとの説もあらんなれども我輩の所見を以てすれば軍艦製造は自から年月を要
するが故に尚ほ更ら其着手を急にせんとするものなり一旦の急に際すれば一隻の軍艦の有
無も非常の關係にして目下に於て一日の遲延は他日に於て千秋の憾を感ずるの時ある可し
且つ又今日軍艦を注文するも明日より直に用を爲す可きに非ざれども實際の計畫は斯く斯
くなりとて充分の覺悟を物の數に現はすときは一般の人民も自から不安の念を去りて商賣
起業の勇を發するに至る可し擴張の决斷一日も急にせざる可らざるなり抑も彼の干渉事件
の始末は日本國民たるものゝ决して忘るゝこと能はざる一大事にして之を思へば今後の形
勢甚だ安からず更らに一層の困難を想像して日夜片時も心頭を去ること能はざる程の次第
なるに然るに其經營の局に當る當局者の處置は甚だ緩慢にして國民の心を心とせず恰も戰
勝の光榮を局部に耀かして獨り自から得々たるのみか經營の端緒さへも未だ成を告げざる
に時としては自家の都合より職を去らんとするなど果して眞實ならんには甚だ不親切の擧
動と云はざるを得ず我輩の斷じて取らざる所なり是に於てか我輩は議會の人々に向て大に
望む所なきを得ず議會に於ては遼東還附の始末に付き政府の責任を問はんとするの議論も
ありたれども是れは當時の急に際して止むを得ざるの政略のみ其前後の事情を公平に論ず
るときは國民も亦共に失策を與にしたるものなれば獨り當局者のみを責む可きに非ず故に
我輩の所見は既往を問はずして將來を警しめ戰後の經營を緩慢に付し去りて一般の民心を
疑懼せしめたる其責の在る所を明にせんと欲するものなり國會議員にして眞實國民の意志
を代表するものならんには自から進んで責任を執り當局者の誤を正して大に計畫の不足を
補ひ戰後の經營を全うして以て全國の人心を安んぜしむるの决斷なかる可らず我輩の敢て
勸告する所なり