「航海奬勵法案」
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本文
航海奬勵法案
衆議院に提出せられたる航海奬勵法案は不日貴族院へ廻り法律と爲るの日も近々の中なる
可し我輩は其前に當り聊か議會に對して注意を促さんに抑も近來歐米各國に於て鋭意奬勵
して航海の擴張を圖るものは表面上たゞ其國の貿易通商を盛んにせんと欲するものゝ如く
なれども又一方より見れば啻に通商貿易を謀る爲めのみに非ずして一旦有事の塲合には直
に徴發して軍隊と輸送海上の戰役に服せしむるの準備を爲すものなり我國の航海案を見れ
ば一昨年の戰爭に依りて大に船舶の噸數を增加したりと雖も戰爭前に在りては政府は從來
の約束に依りて日本郵船會社に年々八十八萬圓の補助金を給し三萬五千噸の船を準備せし
めたるの外一も國家の補助に依りて航行するの船舶なかりしが故に一旦日清の葛藤を見る
や上下共に痛心したるは唯運送船の供給如何に在りしこと一般に忘れざる所にして幸に戰
爭の相手が無手無神經の清國なればこそ勝を得たることなれどとも一時は尚ほ船繰りに差
支へを生じて善惡を撰まず商船を買込み雇船を爲す等の次第にして斯く咄嗟の間に商船の
買入方間に合ひしは唯偶然と云ふ可きのみ列國の間に局外中立の論六ケしき世の中に於て
二度と再び行る可きことに非ず即ち今戰爭前に於ける二十七年五月末の我國船舶の隻數を
見れば大小四百十六隻此噸數十八萬千六百五十九噸なりしものが戰後の昨年五月に於ては
隻數五百二隻、噸數三十一萬四千六百二十三噸と爲れり尚ほ此外に戰爭以外の目的に使用
したる外國雇船を加ふれば昨年度我國にて使用したる船舶は一時甚だしき大數に達したり
しならん戰爭に船を要すること夥しきは此度の經驗こそ爭ふ可からざるの事實を示したる
ものにして歐米の各國が競ふて平時に奬勵金を出し又造船業を補助する等表面の上より見
れば單に貿易擴張の商賣主義なるが如きも裏面の用意を察するときは國家軍用の準備なる
こと自から明白なる可し然るに我國の航海業は明治十年の西南戰爭に於て夙に此準備の必
要を知りながら國費を以て補助するの船舶は僅に三萬五千噸にして一噸大凡二十五圓強に
當るの補助金を給し内外合して十二線路の航海を爲さしむるのみなりしが故に戰爭前に於
て外國航路と稱するものは支那、朝鮮及び浦鹽等の諸港に到るの線路に過ぎずして此三萬
五千噸を除けば其他の船舶無慮十四五萬噸は一錢の補助も受けざれば素より外國に航行す
るものとてはなく只管内國の沿岸に競爭したるのみにして尚ほ此上に戰後增加の船舶を加
れば内地航業の競爭は益々甚だしからんとするの色あるに飜つて外國の貿易を見れば輸出
入の增助と共に外國船の出入甚だ多くして噸數益々增加の勢あり虚心平氣その景况を見れ
ば唯何故に内國船舶が外國に往かずして内にのみ競爭するかを怪しむ可きが如しと雖も實
際に於ては又無理ならぬ次第にして我國の補助金を受る船舶は僅に三萬五千噸なるに對し
て外國にては英、佛、獨、米、孰れも政府の補助金を得て航海に從事するもの多き中へ我
國の無補助なる船舶が航行して競爭せんとするは到底望む可からざる事なればなり去れば
從來補助の三萬五千噸は別にして其外一般の船舶に外航を奬勵するは目下の急務にして即
ち本案の提出を見たる所以なれども其方法に至りては大に考ふるところなかる可からず其
次第は前に述る如く國に多くの船舶を所有せんとするは自から軍國の必要なるが故に年齢
の若くして構造の屈強なるを要するは勿論なりと雖も今日造船の業未だ起らず航業未熟の
我國に於ては其使用する船舶も皆歐米より購入するものなれば今俄に此制限を嚴重にして
船舶の年齢を限るが如きは實際に於て困難の問題なるのみならず奬勵金を受く可き船舶は
之が爲め甚だ少なくして法案の如く五年以下のものゝみを蒐むるが如きは實際無理の注文
なれば此事に就ては既に管船局に現行の船舶檢査法ありて日本人の所有する船舶は一々檢
査の上、遠洋の航海に堪ふるものと然らざるものとを區別して免状を與ふるの成規なれば
奬勵金の給與法も此檢査法と並行して苟も遠洋航海の免状を受けたるものにては殊更らに
年齢を限ずして金を給すること今日の實際に於て先づ適當の處置なる可し又一概に外國と
稱すれども外國の中には近き支那朝鮮もあり又遠き濠洲、歐羅巴、亞米利加もありて遠路
の航海は近路のものに比すれば困難も多く費用も嵩むものなるに提出案に其區別なきは如
何の理由なるか既に海軍々人加俸の規定には本國を中心として東西南北距離の遠きに從ひ
經緯度を標準として遞加するの例あり左れば奬勵金の給與法も比例の如く近きより遠きに
進むに從て累進遞加の方法を定むるこそ肝要なる可し又噸數を制限して一千噸以上の船な
らでは金を與へぬとの理由は如何、遠洋の航海に小船を嫌ふは勿論なれども實際東洋の水
面には一千噸以上の船にて却て航行に差支あるの塲所なきに非ず現に馬關條約に據り清國
より航行の權利を讓與せしめたる揚子江の如き上海より溯りて重慶まで數千浬の航路は一
千噸以下ならざれば通行するを得ず其他大陸の沿岸を航行するには一千噸以下のもの却て
便利の所多くして此制限は甚だ窮屈に過ぐるが故に斯る制限は削除して成る可く行はれ易
き奬勵法を行ひ苟も船舶の所有者にして日本人ならんには一切平等に之を奬勵して海外の
航行を盛にすると目的とし他日噸數增加して國家相應の船舶を備へたる後に至り漸次に制
限を密にするこそ得策なる可し我輩は我國船舶の航路擴張を望むと同時に我國に又船舶の
數の甚だ少なきを憂ふるものなれば聊か記して參考に供するのみ