「醫師の開業試驗を簡易にすべし」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「醫師の開業試驗を簡易にすべし」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

醫師の開業試驗を簡易にすべし

西洋の文物一たび輸入せられし以來國民の生活に一大變化を來たしたるは云ふまでもなき

事なるが中にも醫學は非常の發達にして今日尋常一樣の外國醫が日本の内地に入ることあ

るも出藍の青たる我學醫に對して競爭は先づ以て斷念の外なかる可しと云ふ我輩の聞て大

に喜ぶ所なれども左らば日本の醫治及び醫政は是れにて最早十分なりとして滿足すべきか

と云ふに决して然らず醫學こそ已に發達したれども醫治醫政は尚ほ其達すべき中道にも達

せざるものと云はざる可らず現に昨年一月の統計を見るに全國の醫師は其數三萬九千六百

三十四人、其中官立の醫學校を卒業し若しくは開業試驗に及第したるもの一萬二千九百八

十四人にして其他は凡べて從前より開業し來りたる者なり從前より開業したりと云へば聊

か體面もよく何か經驗にてもあるが如くに聞ゆれども其多數は草根木皮を用ふる扁鵲倉公

の末流なりとは偖て偖て驚入たる次第ならずや今全國の人口を四千萬とすれば三千二百四

十六人に付き學醫一人の割合なれども此學醫等は多く都會の地に集中して地方に行くを厭

ひ地方は依然として傷寒論の跋扈に一任するが如き有樣なれば詳細の事情を調査したらん

には或は一萬人にして一人の學醫を有するに過ぎざる如き珍事を發見すべし口にこそ醫學

の進歩など云ふものゝ顧みて斯くの如き事情を發見すれば聊か赤面せざるを得ざるなり抑

も斯る事情の永存する所以を考ふるに傷寒論の勢力強きが爲めに非ず又學醫の勢力弱きが

爲めに非ず畢竟人民が銘々の身體衛生の重んず可きを知らず醫治生理の性質を辭せず單に

醫者とさへ稱すれば如何なる者にても無頓着なるが爲めにして其責全く他にあるが如くな

れども又一歩を進めて論ずれば民命財産の安全を擔保する政府の職分として人民が自から

生理衛生の道に通じ醫師藥劑の良否を辨識するまで安然手を拱して待つ可きに非ず苟も國

民の生命を保全するの術は唯日新の學理に通じたる學醫の手中に存するを知らば區々の事

情を顧みず斷じて學醫の數を增加せしむるの方法を取る可きものなり學醫の數增加するに

從て彼等は都會の地にのみ病客を爭ふの不利を悟り漸く散して地方に行く可し地方に漸く

醫師の數を增すときは從來草根木皮の外に藥味を知らざりし偏陬の民も漸く新學問の恩惠

に浴す可し地方民とて元來無神經の者にあらず一旦學醫の治療醫藥を仰ぎて實際に効驗の

著しきを見たる上は爭でか無學無智なる漢方醫に依賴するものあらんや明白の成行にして

我輩の敢て斷行を望む所なるに然るに當局者は小心翼々只管醫師の開業試驗を嚴重にして

醫界に投ぜんとする數千の青年輩をして空しく都門に徘徊せしめ遂には失望の極業を他に

轉ずるものあるに至らしむるとは抑も如何なる次第ぞや學術不充分なる醫師を許さずして

民命に對する危險を避けんとするは如何にも殊勝の至りなれども一方には學術不充分なる

洋醫よりも危險百倍なる漢方醫をしえ跋扈飛揚せしむるが如きは小心に過ぎて臆病に近き

ものと云はざる可からず或は學術不十分の洋醫は時として人命を誤ることあらんなれども

之を古流醫の危險に比すれば尚ほ忍ぶ可し漢家の草根木皮隨分不安心のみならず中には其

漢藥中竊に洋藥を加味して以て老先生の匕加減に誇らんとする者さへ少なからずと云ふ恐

ろしき次第ならずや斯る曖昧なる群醫をして國民多數の生命を支配せしむると寧ろ今日の

醫術開業試験を簡易にして一時に多數の洋醫を作ると其利害は多言を俟たずして明白なる

可し或は開業試驗を簡易にして多數の醫師を一時に出さば需要供給の理に從て洋醫の價格

を落し其収入を減ずべしとの掛念もあらんかなれども是れぞ却て我輩の望む所にして寒村

僻邑の粗衣粗食に甘んずるほどに學醫の多きを見るに至らざれば日新醫術の恩澤は國中に

遍きものと云ふ可らざるのみならず斯くの如き境遇の中に在て學術を勉むる者の中にこそ

眞に醫界の英傑を見ることなれ殊に天才と學問は自から別種のものにして政治經濟學の達

人必ずしも大政治家大財産家たらざるが如く醫學の上に於ては凡庸の人物にてありながら

其治術は殆んど大家先生たる者なきに非ず畢竟試驗の嚴峻に過ぐるは天才を殺すものと知

る可し我輩は醫政の當局者が速に開業試驗を簡易にして文明醫療の恩澤を成る可く速に國

中に遍からしめんことを勸告する者なり