「子弟の敎育」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「子弟の敎育」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

子弟の敎育

忠孝仁義の德敎も時と塲所とに依ては強ち有害無益のものとも云ふべからず自から亦世を

益し人を利するの効能なきにしも非らざれども扨て世俗の信ずるが如き大切なものに非ら

ず我輩の毎度云ふ如く總て道德の敎は人の耳より入らずして其眼より入るものにて百聞の

講話は一見の實例に若かず古人の百德は今人の一德に及ばず學校の敎員等が何程辯舌を巧

にして古人の嘉言善行を説話し以て人生德義の貴き所以を述ぶるも若しも先生の行状甚だ

不埒にして講和と行状と恰も別人にして所謂言行相反する時は其子弟たるもの先生の善言

に則らずして其惡行を見習ふを常とす即ち品行方正の敎師を撰ぶ所以なれども最も怪しむ

べきは今の小學校に於て一週若干の時間を以て殊更に修身講話の時と定め既に今世の人情

にも適せざる故人陳腐の奇行尚ほ甚だしきは狂人醉漢抔の所行を説き之を標準とし以て子

弟を善道に誘導せんとする事なり到底無益の沙汰のみならず之を從來の經驗に徴するも更

らに益する所なく却て世に害毒を流すの實例あり近くは彼の支那人を視るべし若しも道德

の敎を人の耳より入るとせば古來孔孟の敎に薫陶せられ幾遍となく四書五經を通讀せし支

那人こそ悉く聖人にして其德義心は天下に冠たるべき筈なるに實際の始末は如何不義不德

は恰も支那人の特色にして巧言令色殘忍酷薄は孔孟の子孫に多く凡そ人生の惡事惡行は悉

く清國に集まり清國は恰も天下惡人の巣窟なるが如し德敎の恃むに足らざる大概斯くの如

しと雖も或人の説に耳より入るの敎は眼より入るものゝ深きに若かざるは勿論の事なれど

も亦以て幾分か其効能なきに非らざる其證據には現在惡事を働き人の私有を犯す盗賊に對

し抑も他人の物を盗むは善き事なりや惡しき事なりやと問はゞ必ず夫れは惡しき事なりと

答へん即ち其惡しき事なりと答ふるは耳より入りたる德敎の功德にして良心なるものに外

ならざれば未だ全く其効なしと云ふべからず云々の説あり如何にも一應は道理ある説の如

く聞ゆれども耳入の敎は唯其人をして外形を裝はしめ所謂世に多くの僞君子を作るのみに

して决して其心事を動かすの力なきは彼の盗賊の言行相反するにもせよ若も最初より純然

無雜の德行を望む可らざらんには德言にても之を勉めざる可からずとの説を爲す者あり強

ち無稽の言に非らざれども凡そ人品の最も賤しむ可く最も惡む可きや善言惡行の僞君子に

若くものなし等しく天地の罪人ながら自から惡事を働て自から其惡事を公言する者は惡人

ながらも其心事は質直にして聊か愛らしき所ありて人も豫め其惡人たるを知るが故に容易

に之に肌を許さず肌を許さゞれば其惡人の爲めに迷惑を被むる事も少なく恰も敵に内冑を

看透され惡事を働かんとするも之を擅にするの機會なしと雖も彼の外面に道德を裝ひ内心

に毒を含む者に至ては識らず巧言令色外形以て人を欺き漸々これを我術中に引入れたる後、

大に其惡を擅にする者なれば害毒の及ぶ所固より同日の論にあらず耳入の敎の無益にして

却て其有害なるは〓〓所述の如く已に世の具眼者の萬々承知する所なれども茫々たる宇宙

無數の人誰れ一人として此む益の學を廢して他の有益なる學科に更めんとの言を發する者

なきは甚だ奇に似たれども是れぞ正しく儒流の遺傳にして决して奇にあらず古來學問とし

云へば必ず道德修身の敎を先にし孝は百行の本にして忠は人生の義なり夫婦別あり長幼序

ありとの事を敎へざれば何分學問の體裁を爲さずして何か物足らぬ心地するよりして斯く

爲すものなれば唯これを人の習慣と云ふべし習慣久しきに亘れば第二の性となり之を變ず

る事中々容易の事ならざれども已に其無益なるを知て之を改めざるは愚なり果して其無益

なるを知らば遠慮なく之を改め以て日進の人智に適せしめざるべからず其個條甚だ多き中

に目下焦眉の急とも云ふべきは人身生理の學にして我輩は大に斯學を小學に盛ならしめん

とする者なりと云ふ其次第は凡そ世俗の最も惑溺深き所は死生幽明の際にあるものにて之

に次ぐものは病苦身を冐して煩悶病床に平臥する時にあり死期最早や旦夕に迫りて其手當

に一時一刻を爭ふ其際に至りても醫師を招かず藥石を用ひず徒らに加持祈祷〔ネ+壽〕を

恃んで以て助かるべきの病人を見殺ろしにするは今尚ほ下等人民の常にして今更ら怪しむ

に足らざれども少しく見聞の廣き中以上の人民に至ても尚ほ且つ此迷信は免れ難く性體も

知れざる賣藥一貼の力に依て能く頭痛と疝氣とを同時に治せんとする者の多きは新聞紙上

に賣藥の廣告多きを見ても之を窺ひ知るべし其他蠑〓〔虫+原〕〈いもり〉の黒燒、蝮蛇の

生膽、點眼水の一滴は能く盲者をして明ならしめ返魂丹の一粒能く死者をして起たしめ馬

脾風に赤蜻蛉を用ひ小兒の夜啼に鍋炭を舐めしむるが如き事は枚擧に遑あらず世俗が疾病

に對し人身を養護することを知らざる大概斯くの如し是れ皆人身の生理を知らざる無學の

罪にして先づ此無學惑溺を一掃せざれば何事をも爲す可からず一國の富強と云ひ一家の繁

榮と云ふも其本を糺せば悉く皆一人一身の健康に在て存するものなれども其健康を維持せ

んには必ず生理の大要旨を知らざる可からず血液の循環呼吸の機動位は何人も平生心得べ

き事にて近年に至り世人も大に健康の必要なるを感じ到る所衛生の談を聞かざるはなく人

生の目的は身を安んずるに在り固より我輩の大に悦ぶ所なれども如何せん生理に基かざる

の衛生談は間々大なる誤解を生じ衛生却て不衛生の本となる事あり近くは夏期傳染病の流

行に際し兼て石炭酸は豫防の効能あるものと聞き之を手巾に浸して途上行く行く鼻口に當

る者あり其他これに類する奇事奇談は實に枚擧に遑あらざる可し生理の學問甚だ大切なり

と云ふ可し