「海外の新郷里」
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時事新報に掲載された「海外の新郷里」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
海外の新郷里
日本國民が老大の支那帝國と戰て見事に打ち勝ちたる結果は天晴れ世界の一強國たるを證
明したるに相違なけれども是れは尋常普通の見解にして一代の思想感情を支配せんとする
識者に於ては一層深く事の裏面に立ち入りて遠大の結果を求めざる可らず我輩の所見を以
てすれば過般の戰勝は滿世界に日本の武威を示めしたるのみならず内の國民に向ても日本
人種の精力、氣魂、遙に東洋列國の群を脱して世界有數の人種たるを信ぜしめたるものと
云はざるを得ず苟も世の經世家たるものにして能く此信仰を導きて立國の大計を斷ずるに
於ては東洋南洋、至る所に日本人種の新郷里歴々として眼前に在るを發見し古人が圖南鵬
翼などゝ詩歌の如くに夢想したる其夢想は决して夢想に止らずして確かに事實の上に現ぜ
しむるを得べし千歳の一時とは此事にして我輩の歡喜措く能はざる所なり抑も日本人種は
能力に於ても氣力に於ても决して歐米諸國の民に讓らざるは爭ふべからざる事實なるに然
るに古來東洋の邊海に碇を卸して近世文明の潮流に棹すこと晩かりしが爲め兎角偏狹の癖
を免れず歐米の文明諸國を見ること恰かも無一物の貧素漢が富豪大家を見るが如く口には
彼も人なり我も人なりなどと大言を放ちながら退て其心事を省みれば内實彼等の能力、勢
威、智識に恐怖して到底、競爭上に勝を制すること能はずと觀念したるものゝ如し日本國
民が斯る思想を免れざりしは論より證據、彼の條約改正論の時に非内地雜居の議論囂々と
して天下を動かしたるを見ても明白なり其議論によれば内地雜居を斷行して歐米の資本人
種を輸入するときは日本人は到底競爭に堪へず國力次第に衰弱して其極亡國に終るべしと
云ふにありき立論の妄漫無稽なる一笑にも値らずと雖も然れども其妄論が一時多少の勢力
を有したるものは國民中に能力、氣力共に歐米人に企て及ぶ可らずとの迷信を懷きたるも
のありしが爲めに外ならず斯くまで小膽薄信なる輩に向て萬里の波濤を踏み破て海外に新
郷里を求む可しと勸告するは跛者に趨るを勸むると一般にして論者の熱心にも拘はらず從
來の移住論が成功せざりしも偶然に非ざるなり然るに今や老大の支那國を撃破したる一事
は偏安退守の人心を警醒して力量に於ても氣魂に於ても决して世界何れの人種にも劣らざ
るを信ぜしめたり斯る人心こそ所謂る自覺なるものにして恰かも無明の夢より覺て赫々の
日光を見たるが如く其眼光より見來れば一切の状態新奇ならざるはなく從來何故に歐米人
を恐怖したるか何故に呼べば應へんとする海外の地に新郷里を求めざりしか何故に偏安退
守に安んじたりしか殆んど自から解すべからざる其趣は今日の士人が三十年前を回顧して
攘夷家たりし自家の心事を解する能はざると同じく國民均しく海外に向て好し來れ率ざ行
かんとの勇氣を發輝したり郵船會社が歐洲線を擴張して熟練、資力、遙に我上にある對手
と競爭せんとするが如きは此變化せる人心を代表したるものにあらずして何ぞや我輩が戰
勝を祝するは獨り腕力の勝利を祝するのみにあらず以上論ずるが如き絶大の變化を民心に
與へたる其結果を祝するものなり人心已に變ずれば國家の施設も亦變ぜざるべからず我輩
は經世家たるものが此潮合を外さずますます民心を皷舞作興して日本の金〓を外に向て擴
張し暖潮の流るゝ所、南極星の照らす所、隈なく旭日の旗を飜へし日本語を語るものゝ新
郷里を打建つるを以て國家經營の大方針と爲さんことを切望するものなり