「支那の運命」
このページについて
時事新報に掲載された「支那の運命」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
支那の運命
日清戰爭は既に過去の出來事にして今更ら其是非曲直を論ずべきに非ず一旦その局を結び
たるの今日に在ては依然舊時の友邦にして假令ひ共に相提携して天下の大局に當る程の親
密に至らざるも我に於て之を敵視する樣の念慮は毛頭あることなし况んや竊に其國の滅亡
を希望するが如き惡心とては固よりあらざれども我國の朝鮮に於ける事情より視れば或は
之を接境の國とも云ふべきものにして其存亡興敗は直接間接に自から我國の名利に關する
所少なからざれば深く現在の有樣に注目し常に後來の趨勢を推測し以て後日の覺悟を定め
ざるべからずと雖も其事たるや甚だ容易ならず盖し國の盛衰存亡は尚ほ人の死生強弱に異
ならず永年痼疾の爲めに惱まされ迚も快復は六ケしく數年の存命さへ覺束なからんと思は
れたる弱體の病人が偶然にも其痼疾を脱し矍鑠たる老人となりて天然の壽命を全うするも
のあると等しく内憂外患到底維持は覺束なからんと思はれたる弱國にして却て後來富強の
國となることあるものにて我輩の推測固より違算なしと云ふ可らざれども試に爰に我輩の
診断を下し以て其後來を卜せんに今の清國は外患の爲めに侵掠強奪全く其國を亡ぼさるゝ
か然らざれば内憂の爲めに四分五裂遂に清朝の滅亡に歸するか二者その一に外ならざる可
しと云ふ其次第を述べんに抑も今の文明開化は恰も流動物の結晶して固形體に變ずるが如
き者にて其結晶物中决して異種の物質を容れざるとは化學の定則なり譬へば海面に結晶し
たる氷片を取て之を檢するに氷中絶へて鹽分を認めず即ち水と鹽とは全く其結晶の樣を異
にするものにて異種相容れざるの證據として見るべし今日の文明は所謂レシヨナリズム即
ち智の文明にてモラリズム即ち德の文明に非ざれば智の進むものは世界萬國と共に文明中
に結晶することを得べしと雖も德に依て守るものは智德その質を異にするが故に今の文明
中に結晶する能はず之と結晶抱合する能はざれば勢孤立して獨り天下の大勢に背馳せざる
を得ず之に背馳するものは必ず亡ぶ古來亞細亞の文明は德を以て其本となしたるものにて
我日本の如きも德川の末年に至るまでは德の一品を以て社會の骨子となし政府の仕組より
一家一身の些末に至るまで格式古例等の德義を以て之を牽制し其間更らに智を用ふるの餘
地を許さゞりしも開國以來朝野の學者先達の士君子は只管舊套を脱して新智新理に就かし
めんとて學者は書を著はし役人は法律を改め右より打ち左より矯め漸くにして從來の德域
を脱し日進の智域に入らしめたるものなれば古を慕はず今に安んぜずますます直行前進し
て止まずんば今後の日本は多々ますます多望なりと雖も彼の清國に至ては然らず東方德義
の主祖とも稱す可き孔子生誕の地にして彼れ畢生の目的は只布教の一事にあり遂には葬家
の狗と誤まらるゝまでも之が爲めに憂慮苦心せし程の次第なれば其効能空しからず今日に
至るまで注文通りに古例舊式を守て能く其社會を牽束し進まず退かず今の清國は昔時の唐
代に異ならず子々孫々唯生れては死して死しては生れ其死せる時の有樣は生れたる時の有
樣に異ならずして今日に至るまで外人を視て之を夷狄となし自から稱して中華と云ひ自國
の外に國あるを知らず德の外に文明あるを知らず文明の中に智あるを知らず智の貴きを知
らず德の益なきを知らず世界は智に依て進み支那は德に依て止まり支那は鹽分の如く世界
は水分の如し水は能く互に密着して結晶すれども鹽は其質異なるが故に之と抱合する事を
得ずして氷より分離するものゝ如し智に依て進む者は日にますます強く德を守て止まる者
は日にますます弱く優勝劣敗の理は爭ふ可らず異離同合の定則は疑ふ可らず今の世界中苟
も立國の名を有しながら他と其素質を異にし之と共に結晶するを得ざるものは獨り土耳古
と支那の二者あるのみ土耳古は前年ブルゲーリア、セルヴヰアを割かれ今又アルメニア問
題あり是れも或は土國の手を離れて分離獨立するか又は或國の爲めに奪はるゝか何れにし
ても其本國より分るゝに至る可し支那は如何と云ふに香港は英人の爲めに奪はれ交〓支那
は佛人の爲めに取られ近頃に至り臺灣は我手中のものとなりたるに非ずや事體かくの如き
次第なれば若しも支那帝國にして今後舊套を脱せず尚ほ從來の有樣に安んじ六經萬世眼、
守レ此可ニ以老一など云へる守舊の思想に依賴して國を立てんとせば必らず其國を亡ぼす可
し是れ即ち我輩の外患以て國を滅す可しとする所以なり左れば清國の具眼者中大に此邊に
悟る所あり到底舊時の有樣にては國の命數を維持すること甚だ覺束なければ斷然近時文明
の智域に進むの外に手段なしとて法律習慣悉く舊套を脱して人民に進取の氣風を養成せん
か之を養成して果して能く既に倒れんとするの國脈を維持し得べきや是れ亦我輩の甚だ覺
束なしとする所なりと云ふ其次第は今後若しも開進の第一着として支那内地到る所に鐵道
郵便電信の便を開き思想通達の道を速にし俄に西方文明の光を注射したらば如何、今まで
世界の暗所に蟄伏して眠るが如く死せるが如く生息したる此人民は能く虚心その光明に堪
ふること能はずして必らずや人心に大波瀾を生じ或は自由民權の説を唱ふる者も出づ可く
或は四民同等の説を喜ぶ者もあらん貴族廢す可し門閥破る可しとて其状恰も大河の一時に
决したるが如く旋渦狂奔人心の狼狽は今日尚ほ之を想像するに餘あり此時に當り支那の政
府は果して能く此民心の激觸に堪ふるの力ある可きや之に堪ふるの力あらざれば四分五裂
清朝の滅亡は免かれ難きことならん化学の定則に流動物の結晶して固形體に變ずる其際に
は必らず今まで其體内に潜伏したる熱を一時に吐き出すものなりとあり即ち此人心の騒擾
こそ體内の潜熱を吐くの結果にして早晩此熱を吐かざれば文明中に結晶すること能はず朝
鮮の如きは今正さに其潜熱を吐くものと云ふ可し我日本に於ても嘉永開國の初めより次第
に人心騒擾の實を呈し積年の潜熱を吐き出さんとして遂に慶應の末年に至り時の政府たる
德川を壓倒して王政維新の大業を爲したることなれども若しも其時に當り天下の實權王室
に在りたらんには必らず帝室に向て其熱を吐き出し帝室は其燒點に當りしことならんに幸
に幕府なるものあり帝室に代て天下の實權を掌握したれば天下の熱は悉く其一點に集まり
恰も一身を犠牲に供して朝廷の爲めに盡せしものなれども支那には德川なし又幕府なし其
潜熱吐出の衝を眞正面に受くるものは今の清朝にして之か身代りを求めんとするも勢、得
可からざれば自から倒れて止むの外に道なかる可し左れば自から進んで文明に進まんか必
らず内憂の爲めに清朝の滅亡を來さん進まざれば外國の爲めに其國を亡ぼされん何れにし
ても其命數は限りあるものと知る可し
正誤 昨日の社説酒精の取締法と題する項中十六行目酒精の税金少くも三十餘萬圓収入あ
る可き筈なるに實際は七十餘萬圓とあるは七千餘圓の誤りにして又二段目のところ酒精の
密賣買さるゝ高は税金に徴りて三千餘萬圓とあるは三十餘萬圓の誤植なり