「國勢擴張は百年の業なり」
このページについて
時事新報に掲載された「國勢擴張は百年の業なり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
國勢擴張は百年の業なり
此頃佛國新聞の論勢を見るに政府の機關紙を除くの外は多くは殖民政策の前途に疑を抱き
領地の擴張は本國に益なくして徒に國財を消費するに過ぎずとて囂々として其非を鳴らす
ものゝ如し佛國の人民は多年來重税の負擔に苦しむ其上に近頃マダガスカー遠征の經費の
爲めに更に一層の重きを加へてますます苦しむものなれば斯る説を爲すも自から無理なら
ぬ次第なれども飜つて考ふるに此事たる他の國の上のみに非ずして近來我國の人心にも或
は斯る傾はなきやと聊か疑はざるを得ず例へば臺灣征討の當時に於ては何事を差し置きて
も新領地の始末は急にせざる可らずとて一般に熱心したるに引換へいよいよ平定の今日に
至りては道路の開通、港灣の修繕等速に斷行せざる可らざるの事業多きにも拘はらず世間
の人心甚だ冷淡にして前日の熱心を見ざるは如何にも不思議の次第にして或は國民が業に
已に領土擴張の事業に厭きたる内情はなきか若しも果して然らんには佛人と同じく租税の
負擔に苦情を唱ふるに至るやも知る可らず左りとては口惜しき次第のみか日本人の恥辱に
こそあれば我輩は國民が今より擴張の事業を以て單に目前算數上の利益を求むるものと爲
さず着眼を一層高尚にして永遠の結果を期せんことを希望するものなり此頃佛國の前外務
卿アノトー氏は其國人に告げて國勢擴張は目前の算數に於ては得失相償はずして直接に本
國の富を作るものに非ずと雖も然れども大國民の擴張は斯る淺近の目的に非ずして新國土
に向つて本國の名目を付し其感化を及ぼし其國語を廣げ又其思想を植ゑ以て文明進歩の力
を助くるに在りと云へり此言たる我國民に取りて恰も頂門の一針とも見る可きものなり日
本國民にして新領地經營の結果を眼前に求め之を得ざれば忽ち嫌厭の情を催ほすが如きは
卵を見て速に鳴かんことを欲し其鳴かざるを怒りて之を破ると同樣、性急の甚だしきもの
にこそあれば今後植民の政策は百年の大業として施設には果斷决行を尚びながら其報酬は
氣を長くして永遠の後を期するの覺悟なかる可らず我輩の敢て一言して警しむる所なり