「羊毛も免税す可し」
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時事新報に掲載された「羊毛も免税す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
羊毛も免税す可し
衆議院にては曩に綿花の輸入税廢止案を可决したるに引續き更に羊毛の輸入税をも免除せ
しめんとの説ある由なるが我輩も此説には大に賛成するものなり我國毛織物の需用額は近
來俄に增加したるのみならず又將來もますます增加せんとするの今日に當り其製造業も漸
く發達して他日の基礎を建てんとするは大に喜ぶ可き事にして之を助くるには唯原料の供
給を自由にするより先きなるはなかる可しと雖も我國にては古來羊を飼ふの道を知らず從
て内地に羊毛を産せざるが故に毛織物は非常に珍重せられて其價甚だ貴く猩々緋の陣羽織
は諸侯の外用ふるものなかりし程の次第なりし其代りに蠶を養ふの業は夙に發達し絹物の
低廉なるは世界無類にして歐羅巴にては王公貴族に非ざれば購ひ難き程のものを中等以下
の婦女子が惜氣もなく用ひ居たるは開國早々我國に來りし外國人の驚きたる所にして最初
は唯その贅澤に驚きたりしも後に至り價を聞て尚ほ更に驚き日本の生絲が自國の機織器械
に應ずるや否やも問はず漫に之を買入れ本國へ積送りて失敗したるものゝ少なからざりし
は今日記憶する人も多き話なる其反對に外國人を見るに我國にて從來貴重せし毛織物を纏
ふて其扮装の贅澤なるは幾百金のものを身に着るかと疑はしめたるは我國人の驚きたる所
なり然るに其後互に往來交通の頻繁と爲るに從ひ今日にては絹物生絲の價も歐米と大なる
相違なくして開國前に比すれば甚だ騰貴したる代りに毛織物の價は甚だ下落して猩々緋の
陣羽織决して珍らしからず需用供給の本則は實際に行れて我れに餘れる蠶絲絹物は彼れに
往き彼れに裕かなる毛織物は我れに來りて双方共に相塲の一點に依て動く事と爲りたれば
今後の成行も推して知る可きなり我輩の所見を以てすれば開國以來蠶絲絹物の輸出多きに
引換へ毛織物の需用は甚だ少なくして雙方の釣合大に權衡を得ざりしかども今後は之に反
して毛織物の需用甚だ多からんと思はるゝ其理由は例へば我國人の衣食生活も近來次第に
西洋の風に近いて互に長短取捨するの有樣は實際の必要より來りし者にして見榮にも非ざ
れば又贅澤にも非ず左れば我國民が今後次第に毛織物を需用するは從來孤立の風俗を去て
世界一般の風俗と相一致するものなれば到底止めんとして止まる可からず假令ひ將來の流
行には日本の振袖が歐洲に行はるゝの時代もあらんかなれども夫れが爲めに日本人が洋服
を止めにして毛織物を棄つる等の事なきは明白なり木綿絹物の需用供給は今や世界に平均
したるが如く毛織物も亦東西相平均して我國被服の一要素と爲る可きものなれば之を製す
るの事業も亦絹木綿に次て起る可きは勿論なれども唯その原料の我國に産せざるが故に之
を取扱ふの智識足ずして絹木綿に比すれば發達の順序一歩遲れたるに過ぎざるのみ然るに
今や木綿の業は殆んど其基礎を定めたれば次で來る可き毛織物に就て工業家の注目するは
當然にして内地に於てこそ其原料を求むるに難しと雖も一歩外に出づれば其供給は多々ま
すます辨ず可し就中濠洲各殖民地の如きは毎歳歐洲の需用を充して餘りあるの羊毛を産す
ること印度の綿花と同樣なれども其土地に於ては人口足らずして之を織出すの道なしと云
ふ我國の爲めには寶の山にして一日も手を空す可きに非ざるのみか航路の擴張も早晩此方
面に向て開けんとするの今日なれば輸入税の如きは無論全廢して孟買より綿花を輸入する
が如く羊毛の輸入を自由にして毛織の業を奬勵すること目下の急なりと云ふ可し