「臺灣の教育」
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時事新報に掲載された「臺灣の教育」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
臺灣人の教育に就ては當局者も餘程熱心と見え總督府の中に學務の一部を置て匆匆その事に着手し臺北近傍の八芝蘭と稱する處に學校を設け内國より數名の教師を聘して土人を教えんとしたるに彼等は流石に儒教國に生長したる輩なれば多少文字の素はあれども何分にも新流の教育を嫌ふて容易に入學するものなく或は稀れに入學するも雨が降れば休み風が吹けば休みなど〓惰至極にして強ひて之を促せば退學を申出づるのみか甚だしきは教育の爲めに時間を損するは誠に迷惑の至りなれば其損を償ふだけの〓を貰はざれば登校する能はずなど恰も教育を受けながら授業料を教師より取らんとするが如き我儘勝手のことのみ云ふて始末に困却の折■(てへん+「丙」)、過般の暴動に遭ふて學校は〓はれ教師は〓〓せられたる次第にして現に教育を受けたる輩の父兄なども亂民に與して共共に亂暴を働きたることならんと云ふ以て彼等の容易に文を以て化し難きを知るに足る可き〓〓に聞く所に據れば當局者の〓には〓〓より日本流の教育を〓〓〓は困難なれば〓く彼等の習慣に〓〓先づ四書五經等の〓〓を〓〓〓ひむ次第に〓〓す可〓との〓〓あるよし〓〓〓たる〓と〓〓〓し〓〓〓〓〓が〓に〓〓〓の下に〓りながら動もすれば〓〓を〓へて〓〓を〓つるは〓〓不〓の致す所とは云〓〓がら生來儒教國の人民とて〓〓の外に〓あるを知らず儒教〓外に〓あるを知らず中華以外の國は皆是れ〓〓〓〓儒教以外の〓は總て異〓〓〓と盲信するものにして彼〓〓〓〓〓〓す〓ば日本の如きは〓〓の小〓に〓ならず〓〓勢に乘じて中華の地を侵すも一時〓〓を〓うするまでにして〓〓〓〓を〓る能はざるは彼の〓〓の〓〓に〓ずるも〓〓なり云云とて〓心に彼國〓〓〓〓に〓〓なき其處に四書五經等の經書に〓て〓〓〓〓を〓きたらば彼等は果して如何に感ず可きや果して然り日本の〓〓〓、〓力こそ〓けれども學問道徳は〓〓を師として自ら〓〓を肯んずる其〓〓には〓〓の教育は矢張り〓人の教を本とするに非ずや〓〓に於ては〓等こそ先輩なれば何ぞ日本人の示〓を〓たんや云云とていよいよ彼等の〓〓心を増長せしめていよいよ制し難きに至るは自然の成行なり思はざるの甚だしきものと云ふ可し或は四書五經の〓を用ふるは單に言語を〓るの階梯と爲すに過ぎざることなれば斯る掛念はなかる可しと云はんかなれども决して然らず我國にて〓年來文學の流行を催ほし古書を讀み古言を詮索するもの多きは〓〓文學研究の爲めなれども古〓〓の如きは〓有〓を古色〓〓の〓〓と認めて大に得意のものなりと云ふ况んや事實の分別心は乏しき未開の嶋民等が四書五經を教科書に用ふるを見てますます増長して日本人を〓〓す〓〓〓〓〓〓〓に於て〓れざる〓なり彼の〓〓の人民の〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓にても〓〓の〓〓に出でたるが故に一時大に内地の風に化した〓〓〓中頃より政略一變成る可く彼の固有の習慣に依ることとなりたる以來、人民等は却て反動の情を催ほし支那に脱走するものなども多き〓〓りしと云ふ臺灣の嶋民は〓〓〓〓にして〓〓〓〓〓、琉球の人民と同日の比に非ず若しも〓〓〓〓手段を〓にして彼等をして一〓〓〓の心を起さしむるときは必ず〓〓の〓を〓〓に〓〓〓〓〓〓を云へば〓〓〓〓〓は〓〓〓に鎭定したる〓〓〓〓〓心〓〓〓〓〓〓然〓〓自〓〓〓〓塲合なれば此〓〓〓置〓〓〓主義〓専一にして教育〓如き〓〓く他日に期す〓〓を〓〓〓順序と思へど〓〓〓〓〓彼等の心を風化〓〓〓〓〓にして等閑に付す可らずとならば斷然その主〓を一定して彼等をして其主義に〓て教育を受けざるときは實際に差支あるの必要を感〓〓む〓〓恰も此方より〓〓〓を取て彼の〓〓心を増長せしむるが如きは斷じて取らざる所なり或は教育家の如きは單に教育の一方より〓を見るが故に自から種種の説もあることならんなれども苟も經世家たるものは〓〓の經營に就て一定の方針を確立し文武〓〓の施設總て其方針を本として本來〓〓〓〓〓〓〓まらしめざらんこと我輩の希望に堪へざる所なり