「海軍の任務」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「海軍の任務」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

海軍の任務

軍備擴張に鎧武者を造るの思想を脱す可しとは前號に述べたれども既に其思想を脱し海軍

に心掛けたる處にて其海軍は何の必要に備ふるものか篤と考へざる可らず申す迄もなく國

の軍備は自衞の爲めにするものなれども戰爭は不慮の出來事にして朝に在て夕の變化も知

る可らざる其代りに五年十年乃至は三十年五十年も平和の續くことも珍らしからず其平和

無事の間に軍備は全く無用に似たれども我に防ぐの備あればこそ他國も容易に窺ふこと能

はざる次第にして軍備は即ち平和を維持する所以のものとは云ひながら又一方より見れば

軍備は不生産的の事にして第一に働盛りなる國中の壯丁を引抜きて其勤勞を閑却せしむる

は無論、軍艦大砲等の兵器の如き之を維持保存する費用のみにても容易ならず何れも空し

く費して一錢の利益なきものなれば平時と雖も成る可く之を利用して任務を盡さしめざる

可らず海軍の如きは特に平時の用に適するものにして其任務の大なるを見る可し

抑も文明の立國は商賣貿易に依賴すること大なり國内に殖産興業の事を勉むるは即ち商賣

貿易の盛大を謀るものにして今の世界に於ては商賣貿易の外に立國の道なしと斷言して實

際に差支ある可らず此點よりすれば一國の軍備は取りも直さず商賣貿易を保護するが爲め

にして其目的は自から明白なれども我國人は封建の遺傳、とかく商賣を輕んずるの風を免

れずに單に國を護ると唱ふる其國とは只日本國の土地を意味するものにして戰爭の塲合に

は尺寸の土地も失ふ可らずとの覺悟にて大に奮發する其奮發は甚だ善しと雖も平時の商賣

には甚だ冷淡にして立國の基礎として力を以て之を保護するなどの考は殆んど念頭にも浮

ばざるものゝ如し土地の保護は素より大切なれども商賣貿易にして振はざるときは何に依

て國を立つ可きや尺寸の土、愛す可しと雖も商賣貿易、大に保護せざる可らず而して其保

護は平時に於て最も肝要と知る可きなり英國の海軍の如きは專ら商賣保護の目的にして本

國は申す迄もなく海外に於ける貿易の状况、殖民地の事情より其計畫を立て苟も自國の商

賣の行はるゝ處、又その人民の移住する處には軍艦を派出して保護に怠らず又その軍人も

平時には商賣の保護を以て自から任ずることなれども日本の商賣貿易は曾て海軍の保護を

蒙りたることなし假令ひ手不足とは云ひながら本來心得の間違ひたるが爲めに外ならず今

や我國の商賣貿易はますます發達して既に日本船を以て歐洲の航路を開きたる程の次第な

れば濠洲線の如き米國線の如きも遠からずして着手することなる可し又人民の海外に移住

するものも近來次第に數を增して南洋諸嶋の邊にも種々の業に從事するもの多し何れも軍

艦の保護を要する所にして此頃トラツク嶋にて日本人の殺害されたる如き事は小なりと雖

も本來を云へば軍艦の一隻ぐらゐは直に派遣して然る可き筈なり是等の點より見來れば現

在の海軍にては决して滿足するを得ず大に擴張す可きは勿論なれども其擴張と同時に從來

の護國主義を止めにし大に商賣貿易を保護するの覺悟なかる可らず若しも然らざるに於て

は幾十萬噸の軍艦も平時に於ては只是れ無用の長物にして國民をして空しく負擔に苦しま

しむるに過ぎざるのみ呉れ呉れも注意す可き所のものなり