「官吏の俸給」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「官吏の俸給」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

官吏の俸給

今度政府にては巡査の給料を增すの議を生じ地方官會議にも諮問して不日發表す可しと云

ふ巡査の職務は多忙繁雜のみならず傳染病の檢査、持兇器盗の捕縛等、危險の塲合に出入

することさへ少なからざるに其俸給を問へば八圓より十二圓までなりと云ふ勤勞に割合し

て報酬の少なきは勿論、今の物價騰貴の世の中に斯る少額にては生活さへも覺束なき次第

なれば增額は素より至當の處置にして是非とも斯くあらねばならぬ譯けなれども更らに我

輩の所見を以てすれば單に巡査のみに止まらずして一般の官吏の俸給も等しく增額の必要

を認むるものなり從來の有樣を見るに一般社會の進歩未だ著しからず民間に業務の少なき

と共に世間に官吏を尊ぶの氣風盛にして社會の榮譽實益ともに一に官門に集まるの觀を呈

し天下の人心は政府に入るを以て恰も登龍門の思を爲し畢生の希望は只官吏たるの一事の

みにして官尊民卑の風を成したる次第なりしかども時勢の進歩驚くに堪へたり近年來實業

の發達は從來の事態を全く一變せしめ民間の事業に人物の需用を增して伎倆次第にて相當

の報酬を得ること難からざるのみか官吏の俸給に比して却て豐なるもの多しと云ふ一方に

政府に入るの門戸は頗る窮屈なる其上に入門後も純然たる一種の奉公人にして勤務は忙し

く杓子定木は煩はしき其奉公に割合して給金は香ばしからず一方の實業界にてはますます

人物の必要を告げて報酬の豐なると共に自から身を束縛するものも少なく先づ以て獨立男

子に相當の地位なれば一般の氣風が官吏たるを厭ふて民間の出身を望むに至りしは自然の

勢なりと云ふ可し左れば今日の實際に後進青年の輩に向て一身の方向を尋ぬるときは既に

已に政治法律の學問に身を委ねたるものゝ外は異口同音、實業界の出身を望むは勿論、年

來政府に在りて相當の地位を得たる輩までも夫れ夫れの傳手を求めて民間の事に職を轉ぜ

んとするもの多きも無理ならぬ次第ながら尚ほ此外に官吏を厭ふの情を強からしむるの原

因は物價騰貴の一事なり近來の諸色高直は非常の沙汰にして生活の費用は從前に比して凡

そ何割を增したり斯る世の中に官吏の俸給は依然舊の儘にして例へば百圓の月給は恰も何

十圓に減ぜられたる割合なりと云ふ實際困難の次第なるに世間を顧みれば同じ勤勞にて報

酬の豐なるものありと云へば此を去て彼に就かんとするは人情の自然にして留む可らざる

所のものなり若しも此まゝに進むときは相應の伎倆ありて他に地位を得るに難からざるも

のは次第に去りて民業に就き政府に留まるものは不才不活溌の人物もしくは老朽の老物の

みなるが如き有樣を見るに至る可し本來を云へば政府の事務は特に大切の事にも非ず必ず

しも有爲の人材を網羅して之に當らしむるの必要もなければ斯る有樣にて差支なしとする

も我輩の爰に聊か掛念する所のものは官吏の俸給充分ならずして事實に差支ふるの極度は

其氣風を腐敗せしめて惡德を誘致するの〓〓あることな〓我國の官吏を見るに技藝材能の

點〓〓〓〓も清廉潔白、金錢の事に淡泊なるの一事は何〓〓〓〓き〓所にして如何なる〓

〓微職の輩に至るま〓〓〓〓〓〓上に〓〓の〓〓を受くるものは極めて〓〓〓〓〓から是

れ封建士族の遺風にして世界に向て誇るに足る可きものなれども凡そ人間の德義は衣食足

りて然る後の談にして實際に不如意の生活を爲さしめながら其清廉潔白を求めんとするは

是れぞ難きを責むるものに外ならず若しも官吏の俸給を現在の儘にして顧みざるときは彼

等も生活の必要に迫られて遂に心ならずも惡德の境界に誘はるゝに至る可し最も注意す可

き所なり或は大膽に事を見て官吏に多少の私は今の世界に一般の習慣にして到底禁ず可ら

ざるものなり苟も人目に餘る程の事に非ざれば之を大目に看過するも差支なしとの説もな

きに非ず自然の成行より次第に斯る風を催ほすは致方なけれども今の事態は恰も彼等を誘

引して無理に惡界に陷らしめんとするものにして决して人を待遇するの法に非ざるなり今

や世間には種々の事業を新に發起するもの多く又既設の會社銀行などは其規模の小なるを

感じて追ひ追ひに資本の增額を謀るもの少なからず何れも國力膨脹の實を示すものなり政

府も日本國中の一會社として見る可きものなれば此國力膨脹の時機に際し他の事業の例に

傚ひ增資を企てゝ事務の擴張と共に役員の俸給を增すも別に異議はある可らず我輩は官吏

の增給を實際の必要と認めて敢て其决斷を勸告するものなり