「今日の道德論者」
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時事新報に掲載された「今日の道德論者」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
今日の道德論者
世の諺に臭いもの身知らずと云ふ自身は入込みの湯屋に裸體の醜を演じながら往來の人が
脚を露はしたりとて之を笑ふが如き自身知らずの鐵面皮を評したるものならん冷評自から
妙なりとして扨今の世間の實際に於て誰れが適する者と尋れば彼の道德を云々する一種の
敎育家流こそ其人なる可し近時此流の人々は我國武力の發揚と共に精神心力の薄弱を感じ
たるものか頻りに人民の德心地を拂ふて空しからんとすと急言切論するもの少からず今日
の世態、果して此の如くに差迫りたるものなるや否やは自から別問題として道德の敎育改
良果して必要なりとせば眞先に其必要を感ずる者は他人には非ずして德育論者その人なる
可し何となれば民間凡俗の不道德は多くは心術よりの不道德に非ずして其實は生來身に文
思なきが爲め道德の新形體を知らざるの罪なれども特に道德を喋々する道德家敎育家に至
りては知て而して其罪を犯すもの少からざればなり其次第を語らんに論者の熱心々配する
所の道德は多くは義勇武烈とか愛國誠忠とか云ふ公德に外ならずと雖も抑も公德なるもの
は私德の發達したる後に非ずんば見る可らざるものにして其理由は一個人は直ちに社會を
組織する者に非ず先づ家族を組織して而して後に社會を爲すものなれば家族朋友間の私德
の修りたる上に非ずんば社會と名くる漠然無形の者に對する公德の修る可き筈なきが故な
り是れは必ずしも新奇なる理論に非ず既に孔子の言にも身修りて家齊ひ、家齊ふて天下平
なりと云ひし程なれば私德より公德に及ぼすは三千年來儒敎の中心敎理たりし筈なり然る
に今日の論者が先づ父母兄弟妻子朋友等見目る可く手觸る可き眼前有形の者に對する手近
き私德をば等閑に附し去り漠然として形なく想像力の高度に達したる後に非ずんば觀念す
可らざる愛國忠勇等の公德を先にせんとするは事の本末を顛倒したるものゝ如し本末の顛
倒猶可なりとするも公德を守れば私德は省みるに足らずと爲すが如き擧動に至りては我輩
の决して看過する能はざる所なり試みに彼の言論喋々たる德論家の家庭を觀察せよ一夫兩
處に二妻を聘したる者はなきか市井賣笑の婦人を購ふて正妻と爲したる者はなきか或は正
妻側室一家に群を成したる尚ほ其上に時に或は花柳の街に出入して家を外にする輕薄男子
はなきか或は其婦人は正銘の賣笑婦ならざるも兎に角に黄金以て人身を購ひ得たる者は少
なからざる可し又或は社會の上流に女子敎育の事など夫れ是れと心配する婦人もあるよし
なれども竊に其婦人の由来を尋れば曾て自から女德を賣りし者なりとの奇談なきに非ず折
角の心配も信ずるに足らざるなり凡そ人倫の中、男女の關係の如きは社會の綱紀の因て立
つ所の基にして最も重要なるものゝ一なるに自から之を破りて省みず恬然として他の道德
を云々するは恰も破戒無慚の僧侶が魚肉を食ふたる後に口甞めずりして殺生戒を説くが如
し斯る説法を信ぜざるは不信者の罪に非ずして説法者の罪なり啻に之を信ぜざるのみなら
ず却て世人をして道德論を輕蔑せしむるの風を啓くに足る可し例へば爰に親を捨て顧みず
妾を養ふて糟糠を〓より下しながら自から子を教へんとして孝經の講釋をなすものものあ
らんに其子は嚴父の講釋に毫も信を置かず却て反動して根本より道德を疑ふに至る可し左
れば人間修德の入門とも云ふ可き内行を修めすして遽に公德を敎へんとするものは其説の
聽かれざるのみならず却て天下の道德心を破壞する者と云はざる可らず是れ我輩が今日の
所謂る道德論者に感服する能はざる所以なり勿論、欠陥多き人間社會の事なれば人々皆な
圓滿の君子たる能はざる事多かる可ければ我輩は必ずしも論者の内行を擧げて之を窮追せ
んと欲するに非ず又窮追したりとて効あるものに非ざれば必ず之を苦しめんと欲する者に
非ず唯内行修まらず人間道德の初歩たる家庭の倫常すら守る能はざる薄德男女は一切口を
襟じて道德敎育を云々せざらんことを勸告するに止めんのみ