「電信の緩慢」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「電信の緩慢」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

電信の緩慢

近年來我國の電信事業は非常に發達したるが如くなれども更らに一歩を進めて實状如何を

觀察するときは其進歩の遲々として事業の不整頓なる驚く可きものあり例へば東京大阪間

の電信の如き其距離僅に三百五十六哩にして今の汽車の速力を以てするも尚ほ十八時間を

費すに過ぎず若しも途中に停車の時間と塲所とを省きて平均一時間三十哩の速力を出すと

きは十二時間に到着し得ること難からざるに然るに此兩市間を聯結する電信の發着は幾何

の時間を要するかと云ふに往々七八時間を費すこと少なからず其他東京凾館間は八時三十

分德嶋は七時七分、長崎は八時四十七分を要することあり是れは手近き二三の例に過ぎざ

れども若しも細に穿鑿したらば尚ほ甚だしき延着を發見することならん右の如く三十哩の

速力を以てすれば十二時間にて旅行し得べき東京大阪間の短距離に於てさへ七八時間を要

すとせば僅々四時間の相違にして電信と汽車の差は何處に存するや殆んど區別を見る可ら

ず彼の倫敦發の電報が翌日の橫濱新聞に記載せらるゝに比すれば我國の電信は霄壤の相違

にして固有の效能を失ふものと云ふも可なり文明の世界は時是れ金の喩に漏れず一刻千金

も啻ならざる今の社會に堪へ難き次第なりと云ふ可し左れば我輩は政府が速に適當の處置

を施し此不都合を改めんことを望むものにして電信の經濟を獨立せしめ一定の經費を豫算

に仰ぐの迂遠を避け収入を以て事業の擴張を自由ならしむるが如きも自から一法なれども

若しも法律の規定如何ともする能はずとならば此際斷然電信を民業に附するの方針を定め

一切の機關を賣渡し民間に營業せしめては如何或は交通機關の國有民有論を云々し現に英

國の如き自由主義の國にても電信は國有として政府にて營業するの例なりなど民業に反對

の説もあらんかなれども本來國有民有の利害得失論は政府が充分に管理者たる責任を盡し

たる上の事なれ英國の電信は國有に相違なけれども其管理の實際は恰も商人が自家の營業

に忠實なると一般眞實營業主義に由りて管理せらるゝの事實を忘る可からず若しも日本の

政府にして英國の政府に等しく電信の取扱上に人民の便否を顧み精細敏活なる營業主義を

取らんには我輩とても素より異論なしと雖も今日の如く電信發着の時間を鐵道の往復に比

して格別の相違なき程の緩慢を極めながら其管理者たるものが恬として省みざる始末にて

は寧ろ之を民業に附するの得策なるを認めざるを得ず我輩は敢て難きを責むるものに非ず

政府にして爲し能ふならば速に其不便を改むるか若しも爲し能はずとならば斷然賣渡して

民業たらしむるか二者その一に出でんことを勸告するのみ