「醫師の渡航を奬勵す可し」
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時事新報に掲載された「醫師の渡航を奬勵す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
醫師の渡航を奬勵す可し
内地人を移住せしむるにも在來の嶋民を保護するにも臺灣に醫師を送るの一事は目下の急
務なる可し抑も彼の嶋民が阿片の毒烟を獨と知りつゝ之を喫して毫も怪まざるのみか既に
日本領に歸したる今日、早晩嚴禁を免かれざる可しと自から覺悟し居るにも拘はらず喫烟
者の敵、日にますます增加して嗜慾を恣にすること前日に異ならざるは年來の習慣既に性
を成して俄に改むる能はざるの致す所と雖も畢竟は醫師の不足に原因するもの多しと云は
ざるを得ず臺灣の地たる風雨寒暑の變、甚だ急に森林大澤未だ全く開けずして人身の健康
を害するの諸因少なからざるに絶えて衛生の考なき彼の支那人が漫に入込て塲所をも擇ま
ず便宜に任せて居を定めたることなれば自から病毒を釀して種々の惡疫の流行するは數に
於て免かれざる所なれども全嶋中に醫者と名く可きものは絶無の有樣にて僅に草根木皮の
名を記憶し傷寒論の片端を生讀したる賣藥商の輩が勝手に配剤したる怪しき丸散丹を珍重
して萬病一藥に依賴するは到る處の市中に此種の賣藥商が跋扈して巨萬の富を爲すもの多
きを見ても明白なり或は輕症の病は僥倖にも斯る賣藥の爲め否な實際は自然の働に依て平
癒することもある可しと雖も賣藥は矢張り賣藥にして到底効を見る可きに非ず是に於てか
俗に云ふ苦しまぎれの神賴とて種々の呪禁など行ふも素より其甲斐あらざるに然るに不思
議にも一たび阿片を喫すれば精神忽ち恍惚として一服病苦を忘るゝこと妙なりと云ふ彼等
が價の高下を問ふに暇なく又後日に多少の害は免れずと知りながらも自から禁ずる能はず
続々喫烟者の增加を見るも實際無理ならぬ次第にして單に其嗜慾を充たすが爲めのみに非
ざるを知る可し現に彼等の或者がたまたま日本醫の治療を受けて其効驗の著しきに驚き阿
片の中毒をも全癒するの良藥はなきやとて請求したることありしと云ふ阿片の喫烟は病苦
を忘るゝが爲め止むを得ざるに出るもの多く實際彼等も喫烟の有害なるを知りながら尚ほ
止むる能はざるの情寧ろ憐む可きものあり左れば阿片を禁ぜんとするに病の治療に差支な
からしむる爲め醫師の缺く可からざるは申すまでもなく無智の嶋民を導かんとするにも文
明醫術の効驗顕著なるを示して彼等を感服せしむるの必要ある可し况して内地人が眼前に
遺利の多きを知りつゝ渡航を見合せ居るも萬一彼地に於て病に罹るときは治療法の行屆か
ざるを掛念すること一の原因なれば何れの點より見るも醫師の渡航は目下の急なれども現
に内地に於ても醫師の需用少なからずして生憎に差支なき有樣なれば何か奬勵の方法なき
に於ては自から進んで渡航せんとするものはある可からず我輩は當局者が此點に意を留め
て相當の法を設け醫師の渡航を奬勵せんことを勸告するものなり