「市區改正の法律規則」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「市區改正の法律規則」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

市區改正の法律規則

東京の市區改正を行ふに今日の實際の如く土地の買収に普通より安き價を命じ市民は恰も

改正を蛇蝎視して只管これを避けんとするの有樣にては到底目的を達す可きに非ざれば大

に奮發して錢を投じ土地買入の如きは寧ろ普通以上の價を以てして一般に改正を希望する

に至らしめざる可らずとの次第は前號に述べたる所なり就て尚ほ一言せんに政府は去る明

治二十二年に土地収用法を發布して公共の利益の爲めに必要の事業と認定したる工事には

其法に據り損失を補償して土地を収用又は使用することを得せしめたり而して其損失補償

の手續は頗る周到綿密にして測量檢査の爲めに生じたる損失は起業者に於て補償するは勿

論、其の収用す可き土地の區域確定したるときは仕樣書圖面及び損失補償額を所有者及び

關係人に示して協議を遂げ若し調はざるときは起業者は審査委員會の裁決を請ひ所有者に

於て之に服せざるときは内務大臣に訴願し尚ほ服せざるものは裁判所に出訴することを得

るものなり左れば各地方にて鐵道事業を發起して敷地を買入れんとするに際し其所有者及

び關係人は収用法を後楯とし種々の口實を構へて容易に談判に應ぜず起業者に於ては一々

法律に據て最終までの手續を經るは徒に時日を費すのみにして事に益なきが故に大抵の事

は我慢して所有者の申出通り價を拂ふて案外に金を費すこと多きの常なり然るに如何なる

次第にや東京の市區改正に限りては土地建物處分規則と名くる一種の法を適用して其買収

に就ては知事に於て所有者と協議の上相當の代價を拂ひ若し調はざるときは双方より評價

人を出し其評價に知事の意見を付し内務大臣の决を請ひ之を定むるの法にして或は不服の

ものあるも其裁決は内務大臣の一個の權内に屬して更らに訴ふるの道なければ實際は恰も

他の命令に服從せしめらるゝものに異ならず即ち改正の線路に當る市民が普通の相塲より

安き價に土地を買収せらるゝを厭ひ只管これを避けんとして事業の困難を致す由縁なり抑

も東京の市民と地方の人民とを比較して其知識の程度を如何と云ふに一般を平均したる處

にて都會の進歩、田舎に先つは疑ふ可らざる事實なれば収用法の如き大に私有權を重んじ

て人民の自由を許す其法律は寧ろ人智の進歩したる都會の地より先にす可き筈なるに然る

に實際は全く反對にして田舎の鐵道敷設などにては却て寛大自由の法を行ふて時としては

無智輩の愚痴を逞ふせしめながら東京には恰も命令的の處分を用ひて市民の迷惑を省みず

而して其結果を如何と云ふに市區改正の事業は市民に厭はれて進歩の遲々たると同時に地

方の鐵道業なども法律を後楯の苦情の爲めに妨げらるゝこと少なからずと云ふ双方共に適

用を誤るものにして一對の奇觀と云ふ可し盖し當局者の意見に於ては市區改正の事業は非

常に費用を要するが故に斯る命令法を用ふるに非ざれば其效を見ること容易ならずとて專

ら費用の一點より着目したることならんなれども百年の基を定めんとする帝國の首府改造

の事業に費用の多きは最初より分切たることなり政府の命令〓に依賴して僅か許りの錢を

利せんとするが如きは小役人の根性にして到底大業を成す可きに非ず現に實際に徴するも

漸く着手したるは必要もなき塲末の邊か若しくは燒失の跡のみにして肝腎要なる中央の市

街には毫も手の及ばざるこそ明白の證據に非ずや左れば苟も改正の必要を認めて事の成功

を急がんとするには彼の土地建物處分規則など云ふ如き命令的の舊法は止めにし土地収用

法を適用して充分に市民の自由を許す可きは勿論、尚ほ其上にも前にも述べたる如く大に

費用を支出して土地買入の如き實價以上の價を拂ふて所有者を利せしめ市民歡呼の間に事

を成さんこと我輩の勸告する所なり