「私權の考に乏し」

last updated: 2021-12-25

このページについて

時事新報に掲載された「私權の考に乏し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日本人が常に政論を喋喋して政權の爭奪に熱しながら私權保護の一事には甚だ冷淡にして現に自家の利害に適切なる事■(てへん+「丙」)さへも等閑に付して頓着せざるは我輩の解せざる所なり其事實は一にして足らざれども手近き例を云へば東京市民の市區改正に於けるが如き著しきものなる可し從來市民の擧動を見るに特別市制の廢止知事排斥の運動などには非常に奔走して恰も狂氣の態を演じながら市區改正の爲めに銘銘の私權を抑へられ實際に損害を蒙ること一方ならざる其處置に就ては實際に苦情の多きにも拘はらず曾て運動奔走の沙汰を聞かず全く泣寢入りとは卑屈も亦甚だしと云ふ可し抑も今日の實際に公共事業の爲めに土地買收の塲合には土地收用法の規定あり充分に私權を保護して損害の補償は一切起業者に負擔せしめ所有者の内實は寧ろ益するものさへあるの常なるに然るに東京の市區改正に限りては專制時代の遺法とも云ふ可き公用土地買上規則の精神を傳へたる土地建物處分規則を適用し買收の直段を定むるは恰も政府の命令に出で時としては實價よりも安き價を命ぜられながら所有者は飽くまでも之を爭ふを得ずと云ふ今の日本は法治國なりなど云へども東京の市民は等しく法治國の人民にてありながら法律の恩澤に霑はざるものと云ふも不可なきが如し或は斯る處置も一時の便法として效能の著しきものあらんには尚ほ忍ぶ可しと雖も一方には人民に少なからざる損害を蒙らしむる其一方には苦情百出容易に目的を達する能はずして事業の進歩を遲緩ならしむるのみなりと云ふ何れの點より見るも利害の分明なるは勿論、東京の市民は直接に痛痒を感じて决して他人の事とは見る可らざるものなるに一般に之を看過して反對の運動を見ざるは何ぞや特別市制の如き廢するも廢せざるも可なり况んや知事の如き幾回の更迭あるも實際の利害に差したる關係はある可らず何れにしても差支なきことなれども改正の處分に至りては永久の財産として所有する土地家屋を現價以下に買收せられて訴ふるに道なく直接の損害少なからざるのみか其影響の及ぶ所甚だ廣し例へば土地を賣らんとするにも改正線路に當るの塲所とあれば價の非常に安きは勿論、實際買はんとするものさへなし又現に土地を有して家屋を新築せんとするにも買收の恐れある所には着手するを得ざる等いづれも改正の爲めに蒙る影響に外ならず而して其直接間接の損害迷惑は土地建物處分規則の如き恰も一種の命令的處分を用ひ強ひて實價以下の買收を命ずるが爲めにして東京市民は私權の一點に於て一般國民と同樣の待遇を得ざるものと云ふ可し市區改正の事に關しては我輩の論じたること一再ならず尚ほ論ず可きものも少なからざれども市民の中には常に政論に熱して特別市制の廢止、知事の排斥などには騷騷しく運動するものありながら銘銘の利害に直接の關係ある此一擧に於ては實際に苦情の多きにも拘はらず又眼前に明白の事實なるにも拘はらず〓〓に付し去りて一言なきは私權〓〓の精神に乏しき一證として認めざるを得ず我輩の敢て注意を望む所なり