「海軍思想の普及を謀る可し」
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時事新報に掲載された「海軍思想の普及を謀る可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
日本人が兎角海軍の思想に乏しきは今度の軍備擴張に海陸相對して割合に海軍の規模の小
なるが如きも單に政府當局者の所見に於て然るのみならず廣く事の實際に徴して例へば公
私の學校にて兵式體操と云へば一般に陸軍式に限り又近來世間に流行する兒童の軍帽など
も陸軍士官の制に擬したるもの多きを見ても知る可きが如し畢竟我國戰爭の歴史に於て軍
と云へば殆んど陸戰に限るの例なるより因習の久しき今日に至るも一般に海の思想に乏し
くして陸に重きを置くものなる可し敢て怪しむに足らざれども海軍擴張は何れの點より見
るも目下立國の必要にして苟も忽にす可らず政府に於ても今後夫れ夫れの計畫あることな
らんなれども國民一般の思想かくの如くにして軍人たらんとするに陸を望むもの多くして
海に志すものは少なく軍艦は出來するも乘組員に乏しきを告ることもあらんには擴張の目
的は容易に達す可らず一昨年來の戰爭に豐嶋を始めとして黄海の大勝と云ひ威海衛の攻撃
と云ひ日本の海軍は世界に評判を博して内の人心にも自から其効力の著しきを感ぜしめた
る筈なれども實際の有樣を如何と云ふに陸軍は全國皆兵の仕組にして如何なる寒村僻邑に
ても兵士を出さゞるの地なく其兵士が戰塲に功名を建て勲章の榮譽を荷ふて郷里に歸るも
の多きが故に人々自から〓望の心を起してますます陸軍を重んずるの傾あるに反し海戰の
効能は斯くまでに著しきにも拘はらず只これを耳に聞くのみにして軍艦は申す迄もなく親
しく其軍人に接することさへも甚だ稀なれば所謂百聞一見の喩に漏れずして心を傾くるも
のも自から少なからざるを得ず即ち世間に尚ほ海軍思想の乏しき所以にして實に國民の欠
點にこそあれば目下戰勝後の機會に際し種々に研究して一般に其思想の普及を謀るの一事
は經世家の勉む可き所なり其方法に就ては人々自から考もあることならん其考は一にして
足らざることならんなれども試に我輩の思付きを述べんに
一 海上の警備巡航の都合を見計ひ成る可く軍艦水雷艇を内國各地の港灣に廻航し數日間
碇泊して公衆の縱覽を許し乘組員は親しく一般人に接して海軍の技術功能もしくは海戰の
經歴談を試む可し近來當局者も此邊に注意したるものか各地に軍艦廻航の沙汰あるが如く
なれども我輩の注文にては尚ほ一層その事を勉めて苟も軍艦の碇泊し得る港灣には必ず寄
港し又軍艦の入ること能はざる處には水雷艇を廻航碇泊せしむることゝ爲す可し
二 黄海の海戰に手ネを顯はし又威海衛の攻撃に水雷艇の夜襲を試み功を奏したる海軍々
人の如きは夫れ夫れ勲章等の恩典に預りたることならんなれども尚ほ其勲功を世間に耀か
して衆人の耳目を惹かしめんが爲めに國中有志の人々が醵金して何か人の目に觸れ易き粧
飾品の類を贈り以て軍人に感謝の意を表す可し
三 黄海威海衛の戰爭又は新造の軍艦、艦内勤務の模樣等を繪に畫き處々に轉廻り展覽會
を開て一般の公衆に縱覽せしめ罷職の海軍士官をして説明せしむ可し其繪畫をパノラマの
趣向にするときは最も妙なり
四 海濱地方の學校にては兵式體操に海軍式を用ひしめ假令ひ席上水練の迂濶は免れざる
も兎に角に水兵勤務の一班にても知らしむるが如き自から一法なる可し
其他種々の方法もあることならんなれども凡そ右等の趣向として公私の企に拘はらず一般
に其事を奬勵し海軍に從事するを以て男子の名譽と爲すの風を養ふ其中にも利に赴くは人
情の自然なれば一方に於ては我輩の曾て論じたる如く海軍軍人の俸給を揩オて名利の双方
より人心を誘導するときは海軍思想普及の目的を達すること難きに非ざる可し敢て世人の
注意を望む所なり