「 會社の重役 」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「 會社の重役 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 會社の重役 

近來殖産興業の事盛に行はれて諸會社の發起計ふるに遑あらず誠に祝す可き次第なり本來事業を成すには自から資本を投じて自から事に當り一身に一切の利害を負擔すること當然なれども其事業の大にして隨て資本を要すること多きものは一個人の力にて能はざるのみか或は大資産家にても各種の事に資本を投ずるものは一方に力を專らにするを得ず是に於てか株式會社の仕組にて事に着手し株主の中より信用經驗に乏しからざる人物を撰擧して業務を委任することなり即ち會社の重役なるものにして其責任甚だ輕からず一個人の業なれば事の成敗は自家の損得に止まりて他に關係を及ぼさゞれども會社營業の如何は株主全體の利害に關し且つ何百萬何千萬の資本とあれば萬一の失敗は經濟社會にも影響少なからず容易ならざることにして株主に於て重役を撰ぶに輕卒なる可らざるは勿論、その委任を受けて事に當る當人も一身を委ねて專ら勉めざる可らず營業上に當然の事なるに然るに今日の實際を見るに一人にして幾多の會社の重役を兼ぬるもの少なからず否な會社の重役とあれば殆んど一種の人々が專有の姿を成して此處にも彼處にも名を列する尚ほ其上に新に事業を發起して未だ緒に就かざる其傍より更に新事業を企て新事業又新事業多々ますます厭はず自から發起人に署名して他を誘導すること頻りなり其事業にして組織を告ぐるの曉には又必ず重役の地位を占むることならん自から名を署する上からには固より責任を負ふの覺悟ならんなれども如何に才力抜群の人物にても一身に斯る幾多の責任を引受けて實際果して差支なきや否や或は重役の職務は事の大體を視るに過ぎず業務の實際は別に適當の人をして當らしむるの常なるが故に敢て差支なしと云はんかなれども元來心身の力には限りあり同時に幾多の事を視るは數の許さゞる所にして自から充分の責を盡す能はざるは明白なるに之を引受けて毫も難色なしとは我輩は只その大膽無頓着に驚くのみ盖し實際に於ては其人々とても必ずしも自から好んで事を引受るものに非ず今の實業社會は尚ほ幼稚にして世間の人々が何か事を發起して其事は充分の見込あるも其輩のみにては世間の信用薄くして資本を募るにも不都合なればとて先づ之を其道の先輩に謀り其名望を利して事を成すの便に供せんとし隨て發起人に推し隨て重役の地位に推すこと一般の常なるが如し其當人より云へば恰も餘儀なく他に依頼せられて聊か義俠の心より其地位を占むるまでに過ぎず苟も之に由て利するなどの考は毛頭もなきことなれども既に地位を占むるときは責任は免る可らず多數の事業中にて萬一の失敗もあらんには一身の名譽を如何す可きや又一般の株主も自から資金を投じて利害の關係甚だ切なるにも拘はらず單に他人の名に依頼して安心するが如き隨分無頓着の談にして我輩の了解に苦しむ所なり今日までは經濟社會も頗る無事にして各種の事業に大失敗の沙汰を聞くこと稀れなりしかども今後事業の勃興に隨て大に競爭の風を催ほし恰も利益の爭奪に忙はしき世の中となれば些末の不注意も容易ならざる關係を見るに至る可し營業上に目下の如き無頓着は决して許さゞる所なれば實業社會の人々は今より大に考ふ可きものなり