「水道水切に付て當局者に望む」
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時事新報に掲載された「水道水切に付て當局者に望む」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
水道は市街都會の地にして其地質の惡しきが爲め井を穿て良水を得る能はざる塲合に遠隔
の地より河水を導き之を一般の住民に供給するものにして衞生上に欠く可らざるの設置な
り東京市現在の上水も此目的に成りたるものなれども其敷設は學術の未だ開けざる時代の
計畫にして單に河水を導て市内に通流せしむるに過ぎざるを以て水の未だ導水管に達せざ
る數里の間に於て既に有機質の混入を免かれざるのみか導水法の宜しきを得ざるが爲めに
管内に汚物の侵入することさへありて下流に至るに從ひ次第に水質を不良ならしむるの常
なり一立法仙迷の水中に含有する細菌の數、百個以上に超ゆるときは善良の水と見做す可
らずとは細菌學者の定論なるに東京の上水に含む細菌の數は甚だ夥多にして一立方仙迷中、
數萬を計ふ可しと云ふ斯くの如く水質の不良なる其上に導水法の不完全なる爲め其水管線
に沿ふて住する市民に傳染病毒を傳へて蔓延せしめたるは先年虎列剌流行の塲合に其實例
を認む可し衞生上容易ならざることにして改良の一日も急にせざる可らざる所以なり市の
當局者は爰に見る所あり先年來その工事に着手して完全無缺を期する又その一方には下水
の浚渫等土地の清潔法を勵行して衞生上の注意到らざる所なし一般の市民も實際に傳染病
の恐る可きを知て銘々飮食等の事に心を用ふることゝなり隨て水道工事の速に落成して善
良なる飮用水の供給を望むこと大旱雲霓も啻ならざる今日に當り當局者の處置に就て甚だ
解す可らざるは水道水切の一事なり近日來玉川上水樋桝修繕の工事に付き其上水掛りの各
町は午前六時より午後六時まで水切を告げ數周間繼續する筈なりと云ふ此水切の爲めに市
民の迷惑不便利は言ふまでもなく學理上より視て市民の健康に及ぼす影響に至りては實に
容易ならざる者あり少しく其次第を語らんに現時の上水は前に述べたる如く有機質並に細
菌を含有すること非常に多くして健康上善良の水と認むる能はざるものなれども其水が絶
えず管内を通流して新陳の代謝速なるが故に各別水質も變せずして腐敗も來さゞる次第な
り然るに一旦水源を障へて通流の道を絶つときは管内の水は悉く流れ去るも其水を受る井
戸の底には尚ほ多量の水を遺さゞるを得ず而して其井底には有機質の沈滓あるが故に細菌
は其中に於て容易に發育繁殖す可し殊に目下日中の氣温即ち攝氏廿七八度の温度は恰も其
發育に適當なれば細菌は非常の速度を以て繁殖し僅々數時間に井水の腐敗を釀し惡臭を發
するに至る可し其腐敗水は夜間に及び上水の來るに遇ふて多少洗除せらるゝに相違なしと
雖も隨て上流の腐敗水も亦共に入り來るを以て容易に洗除の效を見る能はず故に目下水切
の各町に住する市民は止むを得ずして腐敗を帶びたる上水を用ひざる可らず平常に於てさ
へ善良水と認む可らざる尚ほ其上に此盛暑の季節に際して斯る腐敗水を用ふとあれば如何
にして健康に害なきを得べけんや或は腐敗に傾きたる水と雖も適當の方法を以て細菌を濾
別け又は沸騰するときは飮用に差支なしと云ふものあれども是れは學理に通ぜざる輩の空
言のみ細菌を濾別け又は沸騰するときは細菌の跡を絶つに至るは相違なしと雖も細菌繁殖
の結果として一たび腐敗したる水中には化學的の細菌産生物並に有機質分解物の溶解存在
するを以て假令ひ之を濾過するも又攝氏百度以上に熱するも其化學的新成分は到底除き去
る可らず抑も醫學上に不良水の飮用を禁ずるは單に細菌を含有すること多きが爲めのみに
非ず細菌産生物等の化學的成分の爲めにも腸胃を害するが故にして其實例は往々見る所な
り故に既に腐敗に傾きたる水は如何なる方法を以てするも决して飮用に供す可らざるもの
たるは明白の道理なりと云ふ可し此季節に際して殊更らに樋桝改修の工事に取掛り市民の
健康上に斯る非情の影響を蒙らしむるは我輩の甚だ解せざる所なり
或は上水の樋桝破損して之を改修せざるときはますます水質を不良ならしむるのみなれば
其改修は衞生上止むを得ざるの處置なりと云はんか我輩は敢て改修其事に反對するに非ず
唯目下炎暑の季節に之を行ふを怪しむのみ或は又樋桝の破損は豫め知る可きことに非ず今
回の破損が夏季に起りたるは不慮の出來事にして止むを得ざる次第なりと云はんかなれど
も地震その他の天災の爲めに生じたる破損ならんには固より豫知す可き限りに非ず止むを
得ざれども今回の事は决して斯る次第に非ず云々の地質の塲處に云々の樋桝を用ふるとき
は凡そ幾年間は保存し得べきと云ふ其保存期限は當局の技術者に於て豫め知らざる筈なし
左れば其期限を算して未だ大破に至らざる時を見計ひ冬季もしくは初春の候に於て改修に
着手せば目下の如き不都合を避けて容易に目的を達す可きに殊更らに盛夏の時季を撰で着
手したるは何事ぞや本年の如き虎列剌、膓窒扶斯等傳染病の誘引たる可き膓胃加答兒を發
せしむるの危險あるも恬として顧みざるに至りては實に言語道斷の始末と云はざるを得ず
是に於て我輩の敢て當局者に切望する一事は外ならず此季節に際して改修などとは不都合
の至りなれども實際破損の爲め止むを得ずとあれば致方なし即日より大に工夫の數を揩オ
夜を日に繼で工事を急ぎ一日も早く竣功せしめて水切の爲めに腐敗水の潴留せる導水管内
に清潔の水を注流し其汚物を洗條して以て管内の大清潔法を實行すること是れなり若しも
然らずして改修の爲め今後數周間水切を繼續することもあらんには沿道の市民は日夜戰々
兢々その生を聊くせず當局者に於ても公衆衛生の精~を全うすること能はざる可し我輩は
市民の健康上容易ならざる一大事なりとして切に其决斷を祈るものなり