「警察の本職」
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時事新報に掲載された「警察の本職」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
今回政府にては大臣の護衛巡査を止めたるよし盖し大臣護衛の習慣は大久保内務卿遭難の
時より始まりたるものなれども當時の事は姑く擱き本來を云へば亂暴暗殺等の風説喧しき
時とても必ずしも實際の危險あるに非ず又其風説跡を収むるも萬一の不虞は保證す可らず
從來の護衛は實際に必要なりしも今日は果して其不要を認むるに至りしものか之を判斷す
るは甚だ難しと雖も兎に角に近來の樣子を見れば政論も聊か調子を高尚にして假令ひ其頂
上に達するも暗殺などの危險は先づ以て懸念するに及ばざるが如くなれば之を止るも差支
はある可らず時勢の然らしむる所至當の處置として更らに我輩の所見を以てすれば從來の
警察法に付て感服する能はざるもの甚だ多し政府の大臣と云へば外出の時に護衛を召連れ
其邸内にも始終巡査の番人を置て出入の人を誰何せしむるが如き畢竟人の名譽生命財産を
保護するの精~に外ならざれば當局者の身邊果して危險の虞あらんには其保護は固より至
當なれども斯くまでに官邊人の保護に心を用ふる其警察が一方の公衆に對する擧動如何と
云ふに親疎冷熱殆んど別人の觀あり例へば足弱の老人などが重き包を背負ふて雨後泥濘の
路に艱むが如き傍より見るも氣の毒に堪へざるのみか或は車馬に觸るゝの危險さへ免かる
可らず斯る塲合に其老人を助けて安全ならしむるこそ人民保護の役目なるに巡行の巡査が
現に之を認めながら平然看過するは我輩が途上に於て毎度目撃する所なり警察の目より見
れば大臣と老婆と區別はある可らず一方は非常に注意しながら一方は現に危險の虞あるに
も拘はらず之を傍觀するとは何事ぞや職務の本分を欠くものと云はるゝも辯解の辭はなか
る可し或は日本の巡査は甚だ正直にして本職を盡すの一點に於ては文明諸國にも例を見る
こと稀れなりとの評なきに非ず正直一偏、苟めにも私せざるの一事は日本人の特色として
見る可きが如しと雖も一利一害は物に免かれざるの數にして其特色にも亦自から欠典なき
に非ず喩へば今の新聞紙の如き報道迅速の効能は疑ふ可らずと雖も時としては大に誤報を
傳へて人を誤ること多きが如く巡査の正直嘉す可しと雖も自から公衆保護の職にてありな
がら其本分を忘れて恰も官威を以て人に臨み平生の擧動甚だ風にして一點親切の情を認
めざるもの多きが如き文明國の警察吏が自から身を持するの點に於ては多少の非難あるに
も拘はらず公衆に接する極めて親切にして保護の行屆くに比較して大に遜色なきを得ず其
事實を計ふれば一にして足らざれども例へば土足にて疊の上に登るが如き非常の塲合に非
ざれば許す可らざる所なれども實際に甚た無遠慮なるが如き事、小に似たれども人民の城
郭をョむ其家を恰も乞食小屋同樣に視るものにして畢竟他を同等以下のものと認むるが爲
めに外ならず又無智の輩などが時として酔興に乘じ巡査の小言に對して云々することもあ
れば直に官吏侮辱と認めて拘引するが如き儼然たる官吏を以て自から任じ苟も威嚴を犯さ
るゝを許さゞるものゝ如し保護介抱の目的果して何くに在るや自から職分を誤解するもの
と云ふ可し畢竟政府の當局者が年來官尊民卑の風を養ふて施政の機關とあれば其大小を問
はず悉く政權即ち官權を維持するの用に供し公衆保護の本職をば却て冷淡に付したるより
警察吏の如きも自から其風を見習ひ自家の職分は單に官邊を守るが爲めにして公衆に對し
ては官威を示すこそ政府の御趣意なる可しと信じて斯る奇態の現象を見たるものにこそあ
れば其本來の心掛よりして改むるに非ざれば改良の效は决して認むるを得べからず大臣護
衛の存廢の如き孰れにしても差支なし我輩は先づ其根底より改めて眞實人民保護の本色を
現はさしめんこと敢て希望に堪へざるなり