「手形の流通を盛んにす可し」
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時事新報に掲載された「手形の流通を盛んにす可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
手形の流通を盛んにす可し
昨今經濟社會不穩の情態は學説上の所謂恐慌に非ずして單に一部の商人が振出したる手形の不信用を現はしたるに過ぎず盖し近來會社熱流行、輸出入不平均等の事實を見て或は金融の逼迫を致して西洋諸國の社會に珍らしからざる彼の恐慌を惹起すこともあらんかなど危虞警戒したる銀行者が一部商人の失敗より恐慌果して來れりとて一層警めを嚴にしたる其趣は天色暗澹の夜、野中の墓地を過ぎて何となく心細き折柄、一陣の西風、落葉の顏に觸るるや幽靈の出現と認めて自から狼狽するものに異ならず自から謂れなきに非ざれども實際は唯手形流通の蹉躓より來りし幽靈のみ扨この蹉躓は我經濟社會に取りて幸不幸如何と云ふに我輩の所見を以てすれば一方に於ては幸なると同時に他の一方に於ては不幸と云はざるを得ず聊か其次第を語らんに其幸なる所以は之が爲めに手形の濫發、濫信を制止するの結果ある可ければなり抑も手形なるものは信用ある商人が其信用の程度に應じて之を振出し世間にては其振出人を信じて流通する筈のものなるに今回不穩の原因を成したる一部の商人の振出手形は自家の信用を擔保として眞實商業上の必要より發したるに非ず世間の流行に流され本來の本業を別にして各種の計畫に手を擴げ恰も投機の事を行ふて失敗しながら其失敗の跡を隱さんとて一時融通の窮策より漫に手形を振出したるものなれば之を目して手形の濫發と認めざるを得ず又銀行に於て手形を割引するには振出人の信用如何を察すること肝要にして平生注意す可き所のものなるに實際は貸付に急にして手形の確否を判別するの暇なく一種の投機者が一時彌縫の窮策として振出したるものさへも之を輕信して流通せしめたるが故に其振出人の失敗と共に運命を興にして窮境に陷りたるものなり我輩の所謂手形の濫信とは此事なり即ち今回不穩の原因は手形の濫發と濫信とに由來して其出來事は大に經濟社會の耳目を惹き今後は手形の振出人も亦これを割引する銀行者も共に愼重して共に輕擧を警しむることと爲り恰も雨降て地固まるの喩に漏れず信用制度の發達を促すの結果ある可し我輩の寧ろ幸として喜ぶ所なれども又一方より見て不幸と思はるる其次第は近來手形の流〓漸く行はれて經濟社會の〓通漸く圓〓ならんとする其矢先に今回たまたま不渡の出來事を見〓るより幼稚なる社會に於ては或は一般の手形其物に信用を薄くし漸く發達しつつある其取引上に一頓挫を來すことはなかる可きか聞く所に據れば今回の事件以來手形の流通甚だ圓滑ならず何れの銀行にても其割引を嫌ふの風ありと云ふ一時の變動、日ならずして漸く常に復することならんと思へども一たび手を燒きたるが爲めに火に近づくことさへ怖るるは小兒の常にしていよいよ平穩の後に至りても兎角手形を嫌ふて其取引に難澁を感ずることもあらんには金融界の圓滑を妨げて折角發達せんとしたる信用制度の進歩を幾分か遲滯せしむるの結果も圖る可らず我輩の聊か掛念する所なり然れども今度の不始末は前述の如く手形の濫發と濫信とに外ならず即ち之を振出し又これを流通せしめたるものの過にして手形其物に罪あるに非ず手形の働は正宗の刀と一般にして之を利用すれば大に效を收む可き其反對に誤用の害は更らに恐る可きものあり今回の事は恰も狂愚の輩が漫に正宗の利刀を振廻して人を傷けたるものに過ぎず刀の罪に非ざるは明白なり或は目下の人心とかく不穩の際、注意の上にも注意す可きは銀行當業者の事にして苟も疑ふ可き手形を取付けざるは怪しむに足らざれども單に一部の商人の失敗に懲りて一般に手形の取引を嫌ふが如きは决して取らざる所なり畢竟今度の失敗は手形を發したる當人に失敗の原因を存したるものにして毫も手形の信用を輕重するに足らず寧ろ社會の爲めに一種の教訓を示したるものとして見る可きなれば今後眞成の商人は手形を振出すにいよいよ愼重を加へ又銀行者その他のものも振出人の信用如何を確かめ確實なる手形は颯颯と流通せしめてますます信用制度の發達を促かさんこと希望に堪へざる所なり