「海軍勢力の維持」
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時事新報に掲載された「海軍勢力の維持」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
海軍擴張の方針は前に述べたる如くにして二十五萬噸、三十萬噸、國力の許す限り只その艦數の一隻にても多からんことを望むのみ第九議會にて議決したる第一期の擴張計畫は二十九年度に起り三十五年度に終る七年間に渉り金額九千四百九十餘萬圓にして既に確定したるものなり第二期の計畫は未定の案にして知るに由なけれども新聞紙上に散見したる所に據れば其計畫は三十年度に起り三十八年度に終る九個年の繼續事業にして金額凡そ九千二百六十餘萬圓なりと云へり今これに據て概算するときは所謂第一期第二期の擴張に要する經費は造船造兵を始めとして將校士官水兵の養成及び軍港要港の攝ン費等彼れ是れ合せて十個年間に凡そ二億圓餘を支出するものと見て差支なかる可し即ち我海軍は今後十年を經て始めて二十萬噸に達することなれども斯る緩慢の擴張は四邊の形勢に於て果して許す可きや否や我輩の所見を以てすれば右十年間の期限を短縮して五年もしくは七年と爲す可きは勿論、時宜に據りては更らに第三期第四期の計畫に着手するの必要を認めざるを得ず又その二十萬噸の中には既に老朽に瀕したる艦艇も少なからざれば更らに新造して之を補充せざる可らず殊に輓近造船造兵術の進歩は非常のものにして目下に於て堅艦利器と認められたるものも數年の後には全く時代遲れの舊物となるの懸念なきに非ざれば一日片時も油斷するを得ず我輩が成る可く現計畫の年期を短縮し更らに新計畫の着手を希望する所以なり而していよいよ軍艦を造りたる上にて維持費の一點は如何と云ふに從來の經驗に據れば金銀價の差異に由て時々の變動はある可しと雖も平時に於て軍艦一年度の經費は一噸に付き平均四十三四圓、乘組員は同じく一人に付き二百三四十圓の割合なりと云ふ今假りに二十萬噸の軍艦、三萬人の乘組員とすれば凡そ一千五百萬圓の年額(二十九年度の陸軍經營費は一千六百三十萬圓餘なり)を要す可き筈なれども今後の新造軍艦は排水量の大なるもの少なからざるが故に從來の如く小艦のみより組成されたる艦隊とは大に趣を異にして噸數揄チの割合には軍艦費の揄チを見ず又乘組員の數とても其割合には揩ウゞる可し即ち二十萬噸の軍艦を維持するの經費を一年一千五百萬圓とすれば更らに揩オて二十五萬噸と爲し三十萬噸と爲すも其維持費は右の割合にして毫も驚くに足らざるのみか軍艦の數、揄チするに隨て所謂豫備艦の制をますます實行して幾多の艦艇は常に豫備として港内に繋泊し平素は乘組の定員を大に減少しながら非常の命令に接するときは凡そ二十四時間以内に出發の準備を整ふるの仕組と爲し又改造もしくは修繕中、代る代る豫備籍に編入せらる可きものも少なからず旁々經費を節減して海軍の經濟に利するの方法なきに非ず維持費の點は深く掛念するに足らざるなり抑も軍艦製造に就ては強大有力のものを撰むこと素より必要なれども之と同時に成る可く多數の艦艇を備ふるの利uを忘る可らず從來海戰の實驗に徴すれば勝敗の決、常に艦數の多少に在るの事實は自から明白なるが如し如何となれば兩國相戰ふに際して基本艦隊が敵と衝突するや直に新鮮なる豫備艦を以て新艦隊を組織し得るものゝ勝利に歸すること疑ひなければなり例へば日Cの戰爭に我海軍は有らん限りの艦艇を擧て艦隊を組織し彼も亦北洋艦隊の全力を悉くして兩々相對峙したる其の結果は如何と云ふに黄海の一戰、殆んど彼の勢力を挫折せしめながら我が艦隊には非常の損傷もなくして全勝を收めたるは恰も天祐とも云ふ可きなれども事實は慥に危道を踏みたるものにこそあれ近來軍艦載備の兵器はますます重大鋭利を加へて如何なる裝甲艦をも貫穿破壞し得るの力を具ふるが故に彼我の本艦隊が一たび衝突するときは双方共に非常の損害を免かれざるしとは其道の人の常に唱ふる所なりと云ふ左れば黄海の戰爭に於て若しも我艦隊に二三の主戰艦を有すると同時に彼の軍艦にも鋭利なる兵器を備へ略ぼ對等の勢力を以て双方相切迫して激戰を演したらば戰の勝敗は姑く擱き我損害は決して當時の實際に止まらざりしことならん此時に當り萬一、敵に豫備艦隊の用ゆ可きものありて更らに代て海上に臨まれたらんには事の成行想像に難からざる其反對に若し我國にも豫備艦の設あらんには北洋艦隊の全滅は黄海の戰後、殆んど五個月の永きを待つを要せざりしなる可し即ち海賊の勝敗は艦數の多少に關係すること大なるの事實は決して疑ふ可らざる所なれば我輩は平常役務に從事する常備艦の外に更らに幾多の豫備艦を備ふるの必要を認めるものにして一隻にても二隻にても成る可く艦數の多きを望む所以なり或は海軍擴張固より異議なしと雖も列國の勢力を程度として擴張するときは彼等もますます擴張して其程度を高む可し擴張又擴張遂に底止する所なきに至る可しなど掛念するものもある可し我擴張の程度は勿論、彼の列國勢力の搨キに應じて伸縮せざる可らずと雖も本來自國自衞の爲めにして苟めにも他に對して野心を抱くものに非ざれば一躍して直に彼の本國の海軍と衡を爭ふの必要を見ず只その東洋艦隊の勢力と今後揄チす可き程度とを觀察して注意斟酌す可きのみ畢竟彼等が擴張に汲々たるは列國關係互の平均を保つが爲めにしておのおの地位利害の關係輕重を異にするよりして其計畫に大小の別こそあれども國力の許す限りを盡して此事に臨むるの一點は彼我共に相違の情はある可らず即ち其本國の海軍は自から備ふるの必要ありて備ふるものなれば漫に東洋に向て威力を逞ふするを得ず或は一旦急要の場合には其派遣艦隊の外に更らに摧hす可きは勿論なれども其摧hにも自から限りありて本國の守備を空虚にして外に出づること能はざるは申す迄もなく實際彼等が極東の海上まで臨時に艦隊を派遣するには種々の困難ある中にも例へば石炭供給の一事に就ても其不便は容易ならざる可し既に前年佛C戰爭の時にクールベー提督が專ら南方の攻撃を勉めて遂に北方に進まざりしは石炭の供給意の如くならざりし爲めなりとの説あり又事、少しく古けれども英佛の聯合軍が北支那攻撃の際にも一時石炭に不足して日本より買入れたることありと云ふ左れば彼の列國が東洋に逞ふし得可き海軍力には自から程度あること明白なれば我輩は終始その程度に注目して之に對して常に優勢の地位を占むるを期するのみ