「海岸防禦」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「海岸防禦」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

海岸防禦

我海軍の勢力は海上に優勢を占むるを目的と爲す可きこと勿論なれども勝敗は時の運にして豫じめ計る可らざるのみか時としては敵の艦隊が暗夜もしくは濃霧等の機會を利し我目を偸んで來侵することなきを期す可らず平素より海岸の守備を嚴にするの必要ある所以なり海岸の防禦備はりて敵艦の爲めに襲はるるも後顧の患なきときは我艦隊は一意專心、その本務に當りて軍艦の勢力を攻撃の一方に集むるを得べく萬一退守の塲合にも防禦の備ある海峽港灣は我軍艦商船の爲めに安全なる避難地と爲り又石炭の積入、貨物の上下、艦船の修理等にも差支なきを得べきなり扨その防禦の方法は如何と云ふに海岸の防禦とて日本全國の津津浦浦到る處に砲臺を築き水雷を備へんとするに非ず海岸の要地にして我國防の爲めに必要なると同時に敵の目指す所の地點は自から計ふるを得べきが故に是等の海峽港灣に限りて適宜の防禦を施す其防禦の組織は之を移動固定の二種に分ち一は水雷艇、砲艦、海防艦等より成り一は砲臺、敷設水雷、望樓等を主とするものなり先づ移動防禦より論ぜんに我國現在の軍艦中には既に舊式陳腐に屬し航洋に適せずして單に海岸防禦の用に充つ可きもの少なからず收容艦鎭遠の如きも數年の後には浮砲臺として使用す可きものにして海防用の軍艦は割合に乏しからざるが故に今後の着手は多數の水雷艇を造りて要所に配置し以て防禦を嚴にするの得策たるを認めざるを得ず水雷艇の效力は今更ら述ぶるまでもなく快捷の速力と矮小の形體とを以て機敏迅速の運動は殆んど神出鬼沒とも云ふ可くして暗夜に乘じて敵艦を襲ひ一撃の下に如何なる堅艦巨舶をも破壞し去る其働の驚く可きは近く威海衛攻撃の實驗に撤するも明白なる可し而して其大なるもの即ち百二十噸以上のものに至れば單に海防の用のみならずして進んで攻撃の任務に當るを得るは勿論(我小鷹、福龍の二艇の如き此〓〓に屬す)若しも我艦隊が敵海を一層して制海權を握るときは他の小水雷艇と雖も敵岸に迫りて威力を逞うするに差支なきは過般の戰爭中に我水雷艇の運動を見て知る可し即ち水雷艇は塲合に由りては充分に進攻の用をも爲す可きものにして其效力は非常に大なる其上に經濟の點より見れば其製造費は甚だ廉にして例へば富士、八嶋の如き一等主戰艦一隻を造るの費用を以て水雷艇何隻を得べきやと試に計算するに攻守兩用を兼ぬ可き一等水雷艇ならば凡そ二十隻、防禦專用の二三等水雷艇ならば三四十隻乃至五十隻を製造し得べき其小水雷艇の一撃は容易に一等主戰艦を沈沒せしむ可しと云ふ費用に割合して效力の大なる只驚く可きのみ左れば海岸に水雷艦隊の完備するものある時は如何に有力の艦隊も二百海里以内に近づくを得ずとは一般に許す所なり我海軍は素より海上の優勢を占むるを目的とすること勿論なりと雖も四面環海の嶋國に於て海岸の防禦も又忽にす可らざるの必要あるからには其費用の廉にして製造も容易なるこそ幸なれ思ひ切て多數の水雷艇を造りて各所に配置し日本の海岸は恰も水雷艇を以て取卷き敵艦をして一歩も近寄らしめざるの用意肝要なり歐洲の海軍國に於ては孰れも水雷艇を配置して海岸方面の防禦に任ぜしむる其中にも殊に伊太利の如きは全海岸を十四區に分ち各區に水雷本隊を設けて九隻の水雷艇を配置し其下に更らに第一第二の支隊を置て三隻の水雷艇を配置し以て海岸の防禦を嚴にする其有樣の壯なるは他國の風を望んで怖るる所なりと云ふ我輩は我海岸の防禦も亦伊太利の如くならんことを希望する者なり(近頃水雷艇の一種として潛行水雷艇(Submarine boat)なるものの發明あり實際の效力は未だ確ならざれども佛、米等二三の邦國にては試驗の上、既に採用したりと云ふ此水雷艇は水面を航するに僅に背部を現すのみにして若しも敵艦に接近するときは忽ち水中に沈んで水雷發射の働を爲す可し而して其速力は水面に於ては十九節、水面と水凖に沈むときは十六節、深く水中に沈むときは八節、其水中に在るの時間は少なくも六時間にして然かも電氣の作用を以て上下左右自由自在なり是種の水雷艇は陸兵が戰塲に地物を利用するに等しく海水の中に其艇躰を隱しながら突然軍艦を襲ふて固有の猛威を逞うするものなれば軍艦の爲めには非常の危險物にして今後ますます改良を加ふるときは實に恐る可き攻防の武器たるに至ることならん兵器進歩の今日に於て最も注意す可き所のものなり)又水雷艇の使用に就て更らに注意す可きは乘組員の氣風性質なり凡そ軍人たるものが戰に臨んで决死の覺悟は誰れしも同一樣ならんなれども水雷艇の攻撃は最初より死地に陷るものにして其乘組員たるものは萬萬生還を期す可らず此一段に至りては技倆熟練の外に更らに一種高尚の精神を要せざるを得ず世界の海軍國に於ても水雷艇員が勇敢决死、奇效を奏したるの例は少なからずと雖も日本國人は割合に勇武の氣象に富み國の爲めに死を恐れざるは固有の美質にして特に水雷艇の乘組に適するものと云はざるを得ず我輩は效力經濟の點は勿論、我國人の氣質よりするも水雷艇の完備を以て海岸防禦の第一に置かんことを主張するものなり