「政客論客の教育」
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時事新報に掲載された「政客論客の教育」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
政客論客の教育
昔し昔し支那の道徳家は道二つ仁と不仁とのみと云へり其意味を擴むるときは苟も仁者たらざるものは則ち不仁者たるを免かれず例へば身を殺して仁を成すを君子の事とすれば身を殺さざるものは君子たるを得ざるものなり人間百般の行動を仁不仁の兩極端に限りたるの説なれども本來人心運動の區域は甚だ廣くして其兩極端の間には自から幾多の區別程度なきを得ず人間の行動を仁不仁に限るが如きは如何にも簡單至極の考にして事實に許さざる所なり喩へば色の種類の如き通常五色と稱ふれども其實は七色にして然かも其七色の配合變化に隨ひ種種樣樣の間色を呈して或る染物專門家の言に據れば其種類は凡そ三千以上の多きを見る可しと云ふ實際の事實なれども只世人の眼力遲鈍にして之を見分くること能はざるのみ又寒暖計を見るに華氏の度にて云へば卅二度を氷點とし二百十二度を沸騰點として其氷點沸騰點は寒熱の極度を示しながら其兩極の間には百八十度の區別ありて一度ごとに自から温度の差を認む可きが如し人間の行動も右と同樣にして其標凖を極端に定め善と惡と相對して善人を善とし惡人を惡とするは差支なけれども滿世界に生生する蠢爾たる無數の人類は所謂人心面の如くにして萬億の心は萬億の面の如くおのおの趣を殊にして萬差億別なるは勿論ながら其萬億の差別は似寄の色の如く一季の間の温度の如く僅僅の相違にして黒と白と相對し氷點と沸騰點と相對する程に非常の懸隔あるに非ず即ち世の中には純善の人を見ざると同時に極惡の者も容易に出でざるの〓にして例へば釋迦孔子の如きは善人の標凖として見る可き人物なれども上下三千年の間に如來聖人の出〓は實に希有の出來事にして二度と再び見る能はざりし事實を考へたらば其反對に極惡非道の法外者も甚だ〓にして容易に出づるものに非ずとの次第も自から明白なる可し少しく物の道理を辨たらんには直に了解す可き筈なるに今の世間の議論を見れば極端と極端と相衝突して其間に一歩の餘裕をも容れず自家の意見に反對して説の合ざるものあれば直に之を極惡人と認めて時としては其反對者を殺すことさへ憚からず假令ひ或は殺すまでの甚しきに至らざるもあらゆる罵詈讒謗を極めて之を目するに亂臣賊子不敬不臣を以てして恰も天地に容れざる大惡人として一も二もなく擯斥せんとする其擧動は左ながら亂心狂氣の沙汰とも見る可きなれども其實は自家の心事尚ほ幼稚にして緻密に事を分別するの考なきが爲めに外ならず論者の如きは取りも直さず黒白の外に色を見ず極寒極熱の間に幾多の温度あるを知らざるものにして其簡單狹隘なる只憫笑す可きのみ今の宗教論と云ひ道徳論と云ひ何れも然らざるはなき其中にも政治論の如き特に甚だしきものあるに似たり昨今世間に喋喋する彼の宮内大臣云云の爭の如き非難する者も又その非難を非難する者も双方の言を聞けば双方共に容易ならざる大罪を犯したる大惡人として互に相非難するが如くなれども今日の實際に果して斯る大惡人の有りや無しや論より證據は現に双方當局の人物を見るも知る可き筈なるに斯くまでに極端の言語を以て互に相罵るとは何事ぞや或は其爭は何か爲めにする所ありて殊更らに心にもなき辭を弄ぶの意味もあらんかなれども斯る言語を用ふるに非ざれば目的を達する能はずとは双方共に緻密の考に乏しき證據にして我輩の嘆息に堪へざる所なり畢竟その輩が緻密の考に乏しきは教育の素なくして思想の錬磨を缺くが爲めなれば政論の調子をして少しく上品ならしめんとするには先づ教育を普及して其輩の腦膸より一變せしむるの外ある可らず即ち今の政界の老壯者は其思想の點より見れば尚ほ幼稚の域を脱せずして普通教育のお蔭を蒙る可き人物にこそあれば今日の急は何は兎もあれ彼等を教育の門に入れて其蒙を啓かざる可らず教育普及の要は單に幼年の兒童のみに非ずして寧ろ老壯の政客論客に在りと知る可きなり