「言論の自由不自由」
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時事新報に掲載された「言論の自由不自由」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
言論の自由不自由
世間の説に據れば現政府は言論の自由を重んじて新聞紙の發行停止を廢するの覺悟なりと云ふ立憲の政論に言論の自由、左もある可きことにして自から政界の進歩を認む可し近年來政府が民間の言論に對する擧動を見るに十數年前と比較して其自由寛大、同日の談に非ず以前ならんには新聞紙に記載して必ず發行停止を價したる言論が今日は颯颯と通過して當局者の怒に觸れず或は時としては發行停止の沙汰なきに非ざれども法律に明文を存するが故に執行するまでのことにして夫れとても近來は殆んど稀有の例なるが如し然らば前年の政府は壓制にして勉めて言論を抑へたるに反し近來の政府は甚だ寛大にして其自由を重んずるに至りしものか前年に於て治安妨害と認められたる同樣の論文ならば今日とても同樣に認めざるを得ず同じ罪惡を犯しながら其處置を殊にするの理由はある可らざるに然るに今日は其罪を問はずと云ふ前年の處置は壓制を免かれざるものなりとの説もあらんなれども其相違は即ち時勢の變化にして自から政界の進歩を見る可きものなり顧ふに十數年前に在りては政府の基礎未だ堅固ならず人心の向ふ所區區なりしが故に當局者の考を以てすれば少しく詭檄の言論も社會を動搖せしむるに足る可しと認めたることならん又實際に於ても多少その邊の掛念なきに非ざりしかども爾來政治上の進歩は頗る著しく現に國會議塲の討論の如き以前の新聞紙に記したらんには忽ち罰せらる可きものが公然官報の筆記録に登載せられて政府の手を以て之を四方に配附するに至りし程の次第なれば新聞紙の論説の爲めに治安を妨げらる可しとの掛念は全く無用と悟りたることならん或は實際に治安を妨ぐるや否やは兎も角もとして既に法律の存する上は苟も詭檄の言論とあれば其明文の命ずる所に據て處置せざる可らずと雖も今の言論社會を政府の手に支配して隅より隅まで取締らんとするが如き到底行屆く可きに非ず夫れも或は實際の必要とあれば自から工風もあらんなれども今日の社會に詭檄の言論の爲めに治安を妨げらるる掛念は萬萬ある可らず當局者に於ても自から悟りたることならんなれば發行停止の如き全廢して差支ある可らず其全廢云云の説にして果して眞實ならんか我輩は現政府が特に言論の自由を重んずるものなるや否やを知らざれども只時勢の進歩に伴ふたるの處置として之を嘉するものなり
政界の有樣は右の如くにして言論の開放差支なしと雖も顧みて世上全體の氣風を察すれば智識の程度尚ほ低くして一般に僻見を免かれず宗教道徳教育社交等の問題に至れば假令ひ法律の拘束はなきも自から其自由を妨げられて人の口を箝せしむること尚ほ多きが如し若しも今の社會に學者宗教家の流が大膽自由に自家の所信を公言したらば世間の凡俗輩は果して如何に見る可きや人間〓〓の法として思ふ所を其儘に言ふ可らざるは〓〓なれども例へば西洋の文明社會などにては甚だ〓し〓ざる宗教道〓の問題も一たび日本人の口より出〓〓ときは忽ち物議を免かれざるの有樣なるが故に今、學者の流が兼て〓〓する所信の一班を公にすることもあらば一般の社會にては之を目するに異端邪説を以てして罵詈讒謗至らざるなきのみか時としては其身を危うするの奇禍さへも圖る可らず事實の明に〓する所にして言論の尚ほ甚だ不自由なるを認む可し今回の宮内大臣云云の論の如き目から政治上の意味に出でたるものならんなれども双方攻撃の有樣を見れば其論調如何にも低くして毫も思想の自由を認むる能はざるが如き取りも直さず社會人智の程度如何を現はしたるものにして我輩の如き政治上の言論に就ては現在の法律を存するも必ずしも窮屈を感ぜざれども社會全體の氣風に對しては甚だ不平に堪へざるものなり而して其氣風の狹隘偏僻は畢竟教育の未だ洽からずして人智氣品の幼稚なるが爲めに外ならざればいよいよ教化の效を奏していよいよ言論の自由を見るは前途尚ほ遠しと云はざるを得ず經世家の大に注意す可き所にして單に新聞紙の發行停止を廢して日本は言論自由の國なり文明國の本色を現はしたるものなりなど心得るが如きは未だ幼稚の域を脱せざる政論家の事なる可し