「ペスト恐るるに足らず」
このページについて
時事新報に掲載された「ペスト恐るるに足らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
ペスト恐るるに足らず
印度のペストは其始め孟買市中の一隅に起り漸次に蔓延して八方に擴がり其勢猛烈を極め
て當る可からずと雖も住民は概して五千年來の迷信に醉ひ文明の學理を知らずして醫術を
厭ふこと支那人に異ならず之に敎ふるに避病衛生の事を以てするも却て疑惑を起して寧ろ
病人隱蔽の媒介たるに過ぎずといふ無智蒙昧度し難きの衆生を主宰する印度政府の心配實
に察す可しと雖も其心配たるや啻に印度政府にのみ止まらず之と交際ある各國は尚ほ火事
塲に往きて油を求むるの恩を爲し戰々兢々、火の移らんを恐るゝは當然にして佛國の如き
は之が爲め印度との貿易を停止せんとするの議もありて其輸入品は嚴密に檢査を爲すとい
ふ然るに我國の如き佛國に比すれば印度との交通も盛にして殊に病毒の中心點たる孟買よ
りは殆んど毎週の入船あるが爲め衛生家の注意を惹く事も甚だ重く將來の病勢如何に依り
ては佛國と同樣なる手段を採るの議出るやも知る可からずと雖も我輩の所見を以てすれば
斯る議論を豫想するは實に杞憂の甚だしきものと言はざるを得ず試に學醫の説に從て其理
由を陳べんに元來ペストの病原は一種の細菌にして其の傳染力の劇甚なるは遙に虎列剌病
の上にあり或は空氣中に飛散し或は流動物中に潜み呼吸器より入り疵口より入り又は飮食
物より傳染するを以て一度び此病毒を發生するときは四周の空氣物體皆傳染の媒介たらざ
るなし故に彼の虎列剌病が其毒を傳ふるに於て單に飮食物に依り消火器を通じてのみする
ものに比すれば蔓延の速なる豫防の困難なる實に恐る可きが如くなれども尚ほ一歩を進め
て其細菌の活動力を研究したる結果を見れば其力は案外に脆くして之を虎列剌病菌に比す
れば其潜伏する處を消毒して細菌を撲滅するに難からず即ち此細菌の潜む處は氣躰液躰を
選まずと雖も常に日光を嫌ひ清潔乾燥を恐れ陰濕暗黒を好むが故に塵埃と汚穢とは此病原
の發する豐饒地にして加ふるに暗黒にして濕氣ある時は尤も其繁殖傳染をして猛烈ならし
むるものなれども之に反して其土地高燥にして空氣の流通に妨なく日光常に映じて日陰少
なき塲所に到れば細菌は自然に消滅して猛烈なる傳染力も忽焉として絶滅す可し然るに世
人は中古歐羅巴に此病気氣の流行したる歴史など讀み當時の死者日に數十萬人に達して慘
情筆紙に盡し難かりし事情を記憶するが故に兩三年前此病氣が再び香港に發生するや驚駭
一方ならず今にも汚穢陰濕等此病氣傳播の要素一として缺くところなき支那印度に傳染し
て亞細亞の過半に毒を流さば中古歐洲大陸を荒涼ならしめたる如く十八省の人口を減少せ
しむるならんかとまで思はしめたるは偶然に非ず唯その病勢の猛烈ならずして蔓延の區域
狹かりしは案外の事にして實に僥倖と云ふ可きのみ左れば今印度孟買地方の生活法は恰も
中古の歐洲に等しく衣食住共に不潔を極め塵埃常に堆積して腐敗の臭氣毎家に充滿し滿目
一として病毒傳播の媒介たらざるものなきの有樣なれば今後の蔓延實に恐る可しと雖も之
が爲め我日本國にも傳へ來りて彼の不潔人種と共に禍に罹らんとは我輩の信ずる能はざる
所にして之を學理に訴へても殆んど安全を期する者なり例へば我國に輸入する綿花の如き
病毒の發生地たる孟買より積出すもの多きを以て萬一にも細菌の之に附着し來らんかと疑
ふものもあらんかなれども同地と我國との間には海上數十日を費やしたる後更に又我海港
にて陸揚其他の時日を要し乾燥せる空氣中に晒らすこと數實なるが故に細菌は此間に滅盡
するの期充分なる尚ほ其上に我國の風俗習慣は全く支那印度又中古の歐洲人と異なり汚穢
陰濕は尤も之を厭ふのみならず空氣の流通は寧ろ吹通しに過ぐると云ふも不可なきの家屋
多くして之を譬ふれば支那印度等の家屋は穴倉の如く日本人の家は四阿の如し穴倉を好む
の病毒は决して四阿に入らざること實際研究の上に於て明白なるが故に我輩は今回印度の
ペストを左まで恐れざると同時に衛生の當局者をして適當なる檢疫等の處置以外に甚だし
き杞憂を抱き遂には同國との貿易を中止せしめて必要の輸入品をも杜絶するなどの處置に
出でざらん事を望むものなり