「威嚴必ずしも尊榮の資に非ず」
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本文
威嚴必ずしも尊榮の資に非ず
帝室の尊榮は何人も祈らざるものなしと雖も〓これを祈るの方法に至ては自から所見の異
同を免れず或者は只管その尊嚴を盛にして神の如く敬せしむるを以て本意と爲し又或者は
成る可く其御恩德を〓くして以て民をして父母の如く愛慕せしめんと欲す共にに眞理の一
〓を含むものにして一概に是非す可らずと雖も文明日新の世態人情に從て我輩の所見を以
てすれば國民が次第々々に帝室の邊に近づき其德光を仰ぎ奉りて忠愛の情誼中に萬年の春
を樂まんことこそ竊に願ふ所なれ蓋し尊榮を祈り奉るの一方に偏すれば帝室はいよいよ高
くして人民はますます〓し又〓〓〓〓して仰いで〓〓の忠〓を〓すに〓なく其〓〓〓〓す
も畏れ多きことなれども〓〓〓子の養父母に於けるが如く只義理一偏と爲りて心の底より
親子親愛の情を冷にするの憂なきに非ず人生に免れざる所なり在昔德川氏は威嚴を維持す
るの點に於て至らざる所なかりしものなり將軍が所謂御成の節には人爲の往來を差止むる
は勿論、其前日より役人共が出張して沿道兩側の町家に閉店を命じ門戸は釘付にし節穴に
は紙を張り竈の煙をも禁ずる程の次第なれば當日は犬も猫も影を潜めて只行列粛々の聲を
聞くのみ左れば御三家などの威張方も尋常一樣に非ずして圖らずも外樣譜代大名等が途中
にて出會ふことあれば假令ひ砂利の上、泥の中にても下乘せざるを得ず啻に其人の尊嚴な
るのみならず人に附屬する物までも神聖にして將軍家より拜領の鷹は人間よりも尊く鷹の
通行して止宿するときは本陣の主人は麻上下着用にて徹夜その傍に坐する等千種萬樣苟も
威嚴を輝すの手段に於ては至らざる所なかりし其間に威嚴空威張りの反動は天下人心の不
平と爲り就中敎育を經たる諸藩士中の物論を生じて遂に二百五十年の覇權を失ひしこそ是
非なき次第なれ之に反して我帝室は維新以前に於ては遠く雲深き所に御座ましまして下界
の人民と隔絶し下民は萬一にも龍顔を拜すれば明を失ふ可しとさへ傳へたるほどなるに萬
機御親裁以來畏れ多くも近く人民に接し給ひ諸方御巡幸、親しく民の疾苦を問はせ給ふこ
とも屡々にして火難水災等の不幸あれば特に勅使を派して慰撫せしめられ或は御手許金を
下賜して救恤し給ふのみならず春の花、秋の菊には内外朝野の貴顯紳士を召して相共に樂
ませ給ひ陸海軍の演習には風雨をも厭はせられず士卒と共に山野を馳驅し給ひ日清戰爭の
際には廣嶋の假小屋同樣なる行在所に萬の御不自由を一年の間も忍ばせ給ひたるは何人も
恐懼に堪へざる所なりて隨て皇族の方々も金枝玉葉の尊を忘れて御身を卒伍の間に投ぜら
れ日夜兵卒と寢食を共にして倶に風雨に暴され與に艱難を共にせらるゝは目前に拜し奉る
所の事實にして臺灣征討の際に北白川宮殿下には親しく蠻〓璋霧の間に辛苦を忍ばせられ
遂に命を國家の犠牲に供し給ひぬ又客冬小松、山階、華頂、の三宮殿下が海軍の〓艇競爭
に骨を剰す寒風をも厭はせられず水兵と共にシヤツ一枚にて親しくボートを操り給ひしは
勇々しき限りにして觀る者孰れも感激せざるはなかりき斯の如く我帝室は次第に人民に近
寄らせ給ふにも拘はらず其尊嚴は依然として少しも損する所なきのみならずいよいよ民に
親ませ給ふと共にいよいよ尊くいよいよ高くして蒼生の其御恩德に浴することいよいよ深
し德川は威嚴に斃れ我帝室は民と苦樂を共にせられて益々榮え給ふものなり蓋し歴史あり
て以來帝室の尊榮今日の如く熾なるは未だ曾て有らざる所なる可し左れば宮中の官吏も府
中の役人も此に察する所ありて漫に尊嚴を祈り奉るの一方に偏せず寧ろ其御恩德を明にし
て民をして眞實父母を慕ふが如くならしむるの心掛こそ肝要にして宮中を以て別世界と爲
し其内治は何事に限らず一切雲の裡に秘して國民をして知るに由なからしむるが如きは帝
室の尊榮を祈り奉る所以の道に非ず宮内官吏の行を議するものあれば世人或は以て帝室の
尊嚴を〓し奉るものとして筆を折り舌を縛らんとするが如き其意假令ひ帝室に忠ならんと
するに在りとするも事實に於ては却て聖德を累はし奉るものなり又今國の歌舞音曲停止の
如きも其日〓良ければとて以て帝室の尊嚴を增すに足らず短ければとて又以て之を損する
に足らず昔し將軍家の不幸に五十日間歌舞音曲を停止し併せて普請、殺生、武藝をも禁じ
たるに反して帝室に御不幸ありし塲合には僅に五日間の停止に過ぎざりしと云ふ一は甚だ
長うして他は頗る短しと雖も長きが故に德川家の繁榮に益したることなく短きが故に帝室
の神聖に損したる所なし若しも當局者に於て深く下民の内情を察して命令上の停止期限は
成る可く短くして他は人民の忠情に一任したらんには日本人民は滿身忠義の塊なるが故に
生活上餘義なきものは滿期と共に營業を始むることある可しと雖も其他のものは永く謹慎
して苟も樂みがましき擧動を敢てせず實際に於ては當局者の希望通り行はれて帝室の御恩
德を拜すること一層深かりしことならん特に停止滿期後に於て地方官等が生意氣にも手心
を以て當〓者に注意し尚ほ十五日間休業せしめんとするが如きは帝室の御趣意を誤解した
るものにして聖德を光さんとして却て之を累はし奉るものなり之を要するに政治界に於て
は滔々として平民主義の流行するにも拘はらず漫に爵位を輝かして態々不人望を求むるも
のあるが如く宮内官吏などの内には今尚ほ天顔を拜すれば明を失ふとの舊思想を脱するこ
と能はず只管帝室の御威光を盛ならしめんとして却て之を累はし奉るは我輩の深く遺憾と
する所なり