「議員買収」
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時事新報に掲載された「議員買収」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
議員買収
世間の噂に政府は議會に多數を制するの手段として内々金を散じて議員を買収したりとの
説あり我輩は眞僞如何を知らざれども假りに之を事實とするも敢て怪しむに足らず騒々し
く評判して喋々非難するこそ寧ろ野暮の骨頂なれ政府非政府兩黨相對して互に主義政見を
殊にして相爭ひ僅々の頭數にて成敗を决す可き其塲合に金の爲めに動かされて去就するも
のあらんには當人は平素の主義を賣りたるものにして變節の譏は免かる可らず容易に行は
れざる談にして斯る手段を試みるものなからんなれども今の政黨を見れば其爭は决して主
義の爲めに非ず政府の施設は前後を比較して格別の相違を認めず只當局者の顏の變りたる
のみなるに政黨の輩が殊更らに其間に分隔てして云々するは單に前内閣に賛成したるが故
に現政府に反對なりと云ふの外に理由の見る可きものなし即ち其爭は主義の爲めに非ざる
明白の證據にして所謂毛嫌に外ならざれば當局者の身として兎に角に議會に多數を制して
此處を經過せんとするの手段を考ふるときは只彼等を馴らして近くるの外なきのみ若しも
主義の上に反對するものならんには之を近くるなかなか容易ならず或は思ひ止まることな
らんなれども反目の點は毛嫌ひに過ぎずして之を近くるも自から手段なきに非ず而して
内々金を散ずるが如きは最も易くして最も有效のものなりと云ふ今の當局者が目下の窮策
として之を行ふ深く怪しむに足らざるなり或は政府たるものが苟も議員を買収するとは怪
しからぬ次第なりなど云ふものあらんなれども抑も其議員なるものゝ撰擧運動を見るに投
票を得るが爲めに何千圓何萬圓を費したりと云ふ其運動費は何の爲めに費したるか奔走の
費用、宴會の入費なども多からんなれども詰り撰擧人に賂したるに外ならず直接に投票の
賣買は法律に許さゞる所なれども既に撰擧の爲めに法外の金を散じて其金の力は間接に撰
擧人の意志を動かしたるのみか實際には何票何圓の價を以て買入れたるの談さへなきに非
ず何れにしても投票の買収は實際の事實談として何人も認むる所なり既に投票を買ふもの
ならんには自から議權を賣ることなしと云ふ可らず賣るものあればこそ爰に買ふものも生
ずることなれ單に政府を咎むるは野暮なりと云ふ可し
抑も政黨の本色は主義の爭に在り金錢の爲めに説を賣るが如きは主義の罪人にして斷じて
許す可らざる所なれども今の政界に其事の容易に行はるゝことあれば即ち政黨の本色未だ
明ならざるが爲めのみ殊に議員の中には身に定まりたる職業もなく年中都下に滯在して
種々の奔走周旋などに口を糊しながら何時しか奢侈の風に染みて酒樓に眠食し花牌を弄ぶ
など無益の贅澤に浪費も少なからず借金に苦しめられて殆んど身を處するに窮するものも
なきに非ずと云ふ斯る輩に至りては假令ひ買収云々のことなきも容易に金の爲めに動かさ
るゝものにして甚だ頼母しからずと云ふ可し畢竟政黨の全體に一定の主義なく又その銘々
に獨立の志操なければこそ買収などの手段も行はるゝことなれば今後の覺悟は主義を一定
すると共に銘々の志操を堅固にして如何なる手段も施すの間隙なからしむるの外ある可ら
ず斯くの如くにして始めて政黨の本色を認む可きのみ