「射的術の奬勵」
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時事新報に掲載された「射的術の奬勵」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
射的術の奬勵
軍備擴張は海陸共に目下の急要事として扨陸軍に就ては夫れ夫れの計畫も少なからずして
正に着手中なれども其計畫は自から兵制上の組織に過ぎず國の兵源たる一般の士氣を奬勵
し人々武邊の心掛を得せしむるの方法に至りては自から一にして足らず種々の工風もなき
に非ずと雖も政府の事業として之を行ふときは少なからざる金を要するの常にして現在の
擴張計畫さへも過大云々の説を免かれざる今日に際し一般の奬勵に費用の支出は容易の沙
汰に非ざる可し或は國中各學校の兵式體操の如き多少の出費は免かれず實際の必要止むを
得ずして行ふものなれども爰に政府に一錢の金を費さずして武邊奬勵の目的を達する工風
ありと云ふは外ならず我輩が先年來主張して過般も其事に論及したる射的に限りて金錢の
賭を許すの一事なり一般に射的を公許したる處にて銃器火藥等の始末は自から取締の法に
難からず實際に危險の虞なきは慥に保證する所なり或は金錢を賭するの一段に至りて掛念
するものもあらんかなれども今日の實際に賭事は法律に禁ずる所なれども相撲競馬を始め
として花牌と云ひ鶏の蹴合ひと云ひ其事の内々行はれつゝあるは明白の事實にして賭を好
むは人情の自然、殆んど禁ず可らざるものなり然るに我國の法律に於ては之を禁ずるこそ
幸なれ今、射的に限りて賭の公許とあれば一般の人情、これに趨らざらんと欲するも得べ
からず射的盛に流行して國中の男子は一人として其術を心得ざるものなく中には百發百中
の妙手も續々輩出して此一事に掛けては日本人獨得の長所として世界に名を成すに至る可
し一般の士氣を奬勵するの捷徑のみか金錢の賭は實際に内々行はれつゝある其事實を射的
の一方に公にすることなれば自から花牌蹴合ひの如き内密の所行を此一方に向はしむるの
效能ある可し一錢の金を費さずして武邊奬勵の目的を達す我輩は自から工風の妙を信じて
實行を希望するものなり而して其實行に就て尚ほ我輩の所見を以てすれば賭の公許は勿論
なる其上に射的塲の如きは官有地なれば無代にて貸渡し私有地なれば地租を免除して特別
に保護する又その上に其塲所に出入して特に熟練の妙を得たるものは試驗の上、徴兵を免
除するか或は全然免役は實際に不可なりとあれば小學敎員などの例に傚ふて六週間の現役
に服せしむるか又は一年志願兵の特典を與ふるなどの趣向は最も有力の奬勵法なる可し兎
に角に種々の工風を以て射的を奬勵し一般に其事に熱すること昔しの武士が銘々撃劔に心
掛けて如何なる家にても刀劔を所持すると同樣にして銘々の家には必ず銃器を藏する其銃
器の種類を一定せしむることゝも爲さば一旦必要の塲合に直に用を爲して恰も全國皆兵の
實を見るに至る可し今日に於ては或は軍備削減などの説もあれども何か急變の折には何十
萬の常備兵も尚ほ不足を感ずるの時機あるや疑ふ可らず射的を公許して士氣を奬勵し大に
兵〓を養ふて知らず知らずの間に全國皆兵の實を収むるは何れの點より見るも得策たるを
認めざるを得ず我輩の再三陳述して實行を望む所以のものなり