「船舶檢査と郵船會社の掃除」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「船舶檢査と郵船會社の掃除」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

船舶檢査と郵船會社の掃除

郵船會社の請求したる歐米航路特別補助案は審議の時日なしとて遂に握り潰されたれども

會社は爲めに其航海を中止することなかる可し特別補助の金額も奬勵法に依て得べき金額

も殆んど同樣にして其相違は只五年以後に至て遞減せらるゝと否との一事のみなれば會社

は依然航海を繼續して次の議會に特別補助を求むることならん世間には會社が特定航路を

望むは奬勵金の恩典に浴すること能はざる老朽船を利用せんが爲めなりと云ふものあれど

も是れは單に一片の邪推のみ尋常の奬勵金さへ得べからざる船舶を特定航路に用ひて特別

に保護するが如きは普通の道理に於てある可らず左れば特定にせよ一般奬勵にせよ船舶の

檢査を巖にするは勿論なれども我輩は其檢査の方法に就て聊か議論なきを得ず元來造船規

程なるものは航海奬勵法に奬勵せられて航運業の俄に盛ならんとするを見て斯くては國庫

の支出容易に非ずとて狼狽の餘り其奬勵の精神を殺さんが爲めに作りしものにして實際に

不都合を免る可らず若しも檢査官に其人ありて徒に法文を株守せず大に手心を用ふれば此

規定とて必ずしも不便に非ず例へば此柱は少しく細過ぎる樣なれども彼の梁は通常よりも

太きが故に出入相償ふて全躰の堅牢に差異なしと見れば颯々と及第せしむるが如き是れな

り即ち法を活用するものにして西洋にても漫に規程に拘泥せず取捨折衷するの常例なりと

云ふ船の構造の如き年々新案を出すの常にして若しも規程を死守すれば折角の改良進歩も

用ふること能はざるの不便ある可し然るに我檢査官中には熟練の人に乏しくして迚も斯く

の如き活きたる檢査は覺束なしとのことなれば其道に精しき西洋人を雇ふて檢査せしむる

も不可なからん歟或は今後新に注文する船舶は造船規程に據るとして在來の船舶に限り變

通の檢査法を用ふるも可なり其構造に於て欠くる所あり航海不安全とあれば餘義なき次第

なれども元來造船には各々獨得の流儀あるものにして大體の堅牢には影響なけれども而も

細目に於て形式設計を異にするもの多し左れば同じくロイドの檢定船にても一々同一の構

造のみには非ず郵船會社が新造中の船舶の如きも注文後造船規程に合格せしむる爲め多少

模樣替を爲したりと云ふ其然る所以は必ずしも構造の薄弱なるが故に非ず或る部分に於て

造船規程と形式設計を異にするが爲めのみ左れば規程發布以前に於て製造又は購買したる

ものを一々規程に照して檢査するは頗る無理にして酷なりと云ふ可し航海の安全には差支

なきに只その形式を異にするの故を以て幾多の船を排斥して用途に苦ましむるは國の經濟

に於て非常の損毛と云はざるを得ず然れども若しも檢査に手心を許せば其人は西洋人にて

も日本人にても一種の勢力の爲めに眞實薄弱なる船舶を及第せしむるの恐なきに非ず特に

ロイドの檢定の如き及第すると否とは保險其他に於て多少の損得あるに過ぎざれども今日

日本に於て及第すると否とは奬勵金を得ると否との相違にして其損得莫大なれば船の所有

者は種々に運動して檢査官を動かすことなる可し去りとは危險千萬に非ずやと云はんか然

らば造船規程を改正し嚴に過ぐる所は削除して然る可し此規程は元とロイドの規定を飜譯

したるものなれども奬勵禁止の目的を以て立案したる窮規程なれば過嚴に失するものある

は勿論にして例へば船底の規程の如き一重よりも二重の方善きに相違なしと雖も一重なれ

ばとて航海安全ならざるに非ず船内を六區なり八區なりに區隔すれば假令ひ船底を傷ふと

あるも全船内に浸水の憂はなき筈にして特に一重にすれば自から其船材を厚くす可きが故

に必ずしも二重に非ざれば不安心なりとは云ふ可らず左ればロイドの規程に於ても屹度二

重底たる可しと云はず二重ならば云々一重ならば斯く斯くの構造にす可しと云ふのみ然る

に我造船規程に於ては全船を通じて必ず二重ならざる可らずとの事にて彼の土佐丸の如き

も一部分に於て一重の所ありしが爲めに態々二重に改造したりと云ふ是等は即ち改正して

然る可きものならん歟斯の如くにして政府に於ても奬勵禁止的の檢査を廢して實用を主と

すると共に會社に於ても大に社務を整理して他日特定航路の目的を達す可き地を作らざる

可らず今回の失敗は案の提出晩くして審議の時日なかりしに由ると云ふと雖も此案と相前

後したる種々の提出案は無事に通過し甚だしき愚案の名を成したるものまで容易に滿塲の

賛成を得たる此議會に獨り航海案の握潰しは甚だ奇にして自から事情の存することならん

社の政に任ずるものは深く自から顧ざる可らず一家の家政にても一會社の營業にても主人

の心掛如何に依ては著るしき相違を生ずるものにて例へば同じく千圓の歳入を以て同じく

一家五口の生計を立つるに甲は綽々餘有あるに反して乙が借財に苦むは世間普通の習なり

商賣も亦斯くの如し大に勉強して人材を撰び業務を活溌にすれば立派に立ち行く營業にて

も少しく怠れば忽ち損毛を見るの常なり物價下落して商賣不景氣なり若しも此上不景氣と

なれば破産の外なしと云ひながら實際は能く其困難に堪へて營業を繼續するは毎度見る所

の事實にして例へば先年石炭の價著るしく下落したるときの如き炭礦王は何れも失望落膽

せざるはなく今にも續々破産せんかと思ひの外、實際は然らずして大抵その困難を切り抜

けたるは別に神變不可思議の計あるに非ず必要に迫まられて出來る限り儉約もし勉強もし

て冗費を省き冗員を汰し自から廉價に採掘したるが故のみ米國の銀山の如きも此上銀價下

落すれば廢鑛の外なしと云ひしは久しき以前の事にして爾來銀價は次第次第に下落したれ

ども豫言の如く廢鑛するもの少なきは亦右の理由に因るものなる可し今郵船會社に節す可

きの冗費冗員あるや否やは我輩の知る所に非ざれども人の評判を聞けば决して滿足す可ら

ざるが如し世間には政府の補助を仰がず獨立獨行して相應の利益の収むる航業會社なきに

非ざるに郵船會社は莫大の補助を受けながら會社の儲け出したる利益と云ふは殆んど皆無

にして旦に大藏省より金を貰ふて夕に之を株主に配當するのみ其航路は何れも保護の下に

立つものにして而かも難航路のみを撰で會社に指定したるに非ず然るに補助金の外殆んど

一錢の収益もなしとは不思議にして何處かに手落なきを得ず戰爭中には一方ならぬ利益を

得たるよしなれども斯る塲合は一攫千金の秋にして今一層敏活に働きたらんには利益も今

一層多かりしならんとは世間の評にして其評論の當否は姑く措き大にして古き會社などに

は自から情實の弊を生じ易きものにして何時の間にか冗費を累ね冗員を養ふことなきに非

ず譬へば猶ほ大家の如し日々の掃除行屆かざるに非ず一見甚だ奇麗なるが如くなれども歳

末に至て大掃除を行へば此所にも不用なる弊衣あり彼所にも塵埃の堆積するあり棚の隅よ

り入用なる家具を見出すなど案外の事のみ多きは世の常なり左れば郵船會社の如きも大奮

發を以て隅から隅まで大掃除すれば意外の所に冗費冗員あり塵埃の中に人物の埋沒するあ

れば業務繁多の椅子の閑に風流を語るものもある可し斯くの如きは獨り郵船會社に限らざ

れども我輩が特に多きを望む所以は會社は國家の補助に依て成立するものなるが故のみ今

回の案は不幸にして破れたれども其代りに同額の奬勵金を得るものとすれば會社は矢張り

拂込資本の半額に近き補助を受くるものなり天下廣しと雖も斯くの如き殊遇を蒙るものは

稀に見る所にして殆んど官業に異ならず世間も自から之を獨立の民業と視ずして一擧一動

批評を免れざれば會社に於ても注意を密にして國家の殊遇に酬ゆるの覺悟なかる可らず其

特別補助の如き國民は絶對に不可なりと云ふに非ず實際必要とあらば三百萬圓にても四百

萬圓にても惜む所に非ざれども只漠然豫算の數字を並らべて漠然これを請求すること恰も

豪家の息子が十圓の小遣錢を不足と云ひ二十圓にても尚ほ足らずと云ふが如き事情あらん

には假令ひ補助其事は必要なりと知るも人情として之を拒むことある可し海軍省は不始末

なりとの評判ありしが爲めに軍艦製造の必要を認めながら之を否决したる前例もあること

なれば國庫の國財に生存を託するものは事實の有無に拘はらず世間の批評に注意すること

肝要なり我輩は船舶檢査の窮窟を訴ふると共に會社に向て大掃除の斷行を促すものなり